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エッセイ 「ぬけがら」に恋をする人

6歳の頃、近所の公園で知らない高学年の少年が何かを弄っていた。それはビニールテープのようなものであった。少年とその周りを囲んでいた子供たちがいなくなった後、「それ」は鉄棒の下に捨てられていたので拾った。正体は蛇の抜け殻だった。蛇が冬眠するのは知っていたが、脱皮すると皮が残るのは知らなかった。なるほど、これがかつて蛇の皮膚だったのか。ここに中身が入ってたのか。これが財布やら鞄やらの模様に加工されるらしい。やっぱりビニールほど強度があるわけじゃない。自転車のカゴに突っ込んで家に持って帰り、色々調べていたら親に「そんな気持ち悪いもの捨てなさい」と怒られた。そう言われて、これは気持ち悪いものなのかぁ、と思った。こんなに綺麗なものなのに。汚れてるわけでも臭うわけでも、ましてや本物の蛇のように勝手に動くわけでもないのに。抜け殻はどこかに捨てた。どこに捨てたのかは忘れた。それからしばらく経って、私は小学生としての生活が安定し、夏休みにボーイスカウトのキャンプで山(の麓にある公園)に行った。親に強制的に連れられて海や山に行く事は多かったけど、自分の意思で好き勝手に回れる事は少なかった。山の中はアニメで何度も聴いたことがある、セミの音が鳴っていた。そして、地面や木の幹にセミの幼虫の抜け殻が付いていた。琥珀のような質感と色をしていて、足の先に生えている毛先まで丸ごと残っていて、綺麗だなぁと思った。セミの幼虫は白い。セミは土から出て木に登り、背中の裂け目から花が咲くように真っ白な成虫が現れ、幼虫の姿である抜け殻は残る。そして白い体は茶色くなってくすんで、死ぬまでセミは鳴き続ける。その生態はなんとなく、NHKのEテレやら図書室に置いてあるけど誰も触ってない百科事典で覚えていたが実際抜け殻を見ると、生命の神秘というものを感じられずにはいられなかった。セミは、人間とかけ離れているはずなのに、エイリアンみたいな外見と生き様なのに。それなのに、同じ「地球のいきもの」なのが不思議で仕方なかった。抜け殻を弄っていたら、また大人に怒られた。その辺に捨てたり、新しい抜け殻を見つけても気にせず踏み潰した。

博物館に行ったり、大人に教わったり、学校で勉強したりして、色々な「古いもの」の存在を知った。虫や動物の死骸や植物のかけらが腐って、腐葉土に。獣の皮だけ残して肉や内臓を捨て、出来るだけ生前の見た目を再現して剥製を作る。古代の地球で繁栄した生き物の死骸が、波にさらわれたりさらわれなかったりして地中に埋まり肉や内臓が溶けて無くなっても、骨だけが残って未来の人間に発掘される化石。人間の祖先が埋めた土器。エジプトのミイラはファラオの遺体を脳を鼻から引っ張り出し、身体を腐らせないために石灰や塩で干し、包帯と死者の書のヒエログリフを描いたたくさんの棺桶で包んで残す。氷河期に永久凍土で丸ごと冷凍保存されたマンモス。死んだ虫の羽を整え、ピンセットで突き刺す蝶の標本。寄生されたのか、いつまでも羽化しないアゲハ蝶の蛹。愛情を込めて育て、さながら「はらぺこあおむし」の如く大きく育ったお蚕様の繭を煮込んで糸にする絹。スーパーで当たり前のように陳列される豚や牛、鶏の肉や骨。ペットショップで何故か売ってる牛の爪。「世界一受けたい授業」で出てきた、人の肝臓の標本。私が生まれる前からこの家にいた犬を燃やした焼却炉と、そこから出てきた真っ白い遺骨。この世界は生で溢れているが、それ以上に地面は死で埋まっている。その事実を知ることは決して悪ではないはずなのだけれど、死んだものや終わったものに惹かれる子供というのはどうしても気味悪がられる。それでも意志を持たず、「かつて生きていた頃」のまま時間の止まっている存在は美しいと思っていた。それが架空のものであっても。

昔から、絵本やアニメのストーリーに出てくる「悪人」や「ラスボス」には、どうしても改心して欲しくなかった。キャラクターが集まって主人公を讃える話が好きじゃなかった。キャラクターが歳を取るのが嫌だった。今までずっと自分の意思で戦ってきたのに。世界がいきなり出てきた「主人公」に全て操られているみたいで気持ち悪いと思ったからだ。ストーリーの都合上仕方ないとか、善が正しいもので悪はいけないものであるという事は理解していたがそれでも嫌だった。自分の想像の世界から、キャラクターを「リアル」に引きずり出されている感覚があったからだ。今考えると「大人の事情」ですらない、大人からすれば「だってこうしないとお話の辻褄が合わないだろう」という単純な考えが透けて見えるのが嫌だったのだと思う。嫌な子供だ。で、そんな嫌な子供の当時小学4年生だった私は、初音ミクに惚れた。群衆が彼女を思う限り生き続ける、不変で永遠の、電子の歌姫に。恋してしまった。私のまともな人間を目指す人生はそこで終わった。この事を家族以外の誰かに話した事はなかった。話す相手なんていなかったからだ。初音ミク。彼女について、ある人は俺の嫁と言い、またある人は自分のプロデュースするアイドルだと言う。ある人にとっては相棒で、またある人にとってはただの楽器。私にとって彼女は、ただの機械の音楽でありながら、同時に「どんなときでも隣で歌を歌ってくれるおねえさん」だった。自尊心と自己肯定感と引き換えにモラルを失った小学校の教師とクラスメイトに蹂躙されても、家に帰って3DSを起動して、ニコニコやproject Miraiを遊べば彼女に会える。どんな時でも、私の心の中にいる同じ姿で、同じ声で、古今東西のあらゆる歌を歌ってくれる。そういう存在だった。初音ミクにはたしかに彼女の声があって、彼女の声を用いて作られた歌がある。でも彼女の肉体、意思や彼女を縛る「物語」はどこにもないのだ。それなのに今日も彼女にまつわる創作コンテンツは新しく生まれ続ける。それが好きだった。彼女はいつになっても変わらない。私が中学生になっても。高校を中退しても私が歌声を忘れない限り、彼女はそこにいる。

気づけば、私は18歳になっていた。布団から起き上がって棚を見つめると、彼女のフィギュアが部屋に差し込む日の光に照らされていた。

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