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    憎しみの果てには何が待っているのだろう。悲しみだろうか、苦しみだろうか。憎み続けることに何か意味があるのなら、その果ての感情にだってきっと意味はあるはずだ。憎むという行為の前提に愛情があるのなら、その行く末にも、愛が残っていてほしい。愛するが故に憎んでしまうことを、私は美しさだと思いたい。
 それは、私が人知れず憎み続けているからなのかもしれない。世界を、そして何よりも自分自身のことを。後悔をしないように生きていても、結局は自分を憎んでしまうのだ。今よりは少しだけ無邪気だった嘗ての自分の不甲斐なさを、気苦労に歯向かえない今の自分の情けなさを。

 生きていると、いろいろなことがある。そのどれもが、取るに足らないことばかりで、苦しくて、愛おしい。全て面倒で億劫だから、消えて欲しいと願う。それなのに、その全てが、あたかも自分自身のように思えて、憎くて、捨てられない。苦しいのは、愛を願うからだ。悲しいのは、幸せを求めるからだ。痛いのは、誰にもわかってもらえないからで、誰にもわかってもらえないのは、誰のことも、わかることなんてできないからだ。突き放しているのではない。だから知りたいと思うし、考える。自分自身を見つめ直す。

 疲れていつのまにか寝てしまった次の日の朝に、玄関に挿した名もない花を、綺麗だと思えたら。それだけでいい。それくらいがいい。もしもその花を汚いと思ってしまっても、感情のあるうちはいい。今日もまだ、生きていたいと思う。

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