粒粒夙夜

    珍しく小説の登場人物に酷く感情移入したのは、その物語が尊大なミステリーや情熱的な恋愛モノではなく、自分の感情なのに自分の介入できないところで動いていたり、自分が死んでしまったことにもどこか客観的だったり、そういう描写が妙に詳細なせいだった。私が彩斗に会いたいと思ったときに連絡を取るのはいつも愛美だった。彩斗はすぐに返信をくれるし、いつも優しい言葉をくれる。愛美は、平気で半日以上返信をしない。だから、寂しいときに連絡を取る相手はいつも愛美だった。私が連絡を入れた 21時間後に、何?とただ一言だけ送ってくる愛美には、すぐに返信をしてもいい。彩斗への返信には 5分くらい
は間を空けなければならない。だから、彩斗にはいつも頼れない。一度は開いたメッセージアプリの彼の名前をなぞっただけで痺れる指も、何度も開いたはずの肉付きのいい脚も、全部が愛おしい私の体だ。排卵の時期と月経の前になると傷つけて壊してダメにしてしまいたくなる、愛おしい私の体だ。

    彩斗から連絡が来るのは大抵彼の性欲が溜まった頃だけど、本人は多分気がついていない。私からの連絡も 2回に1回以上は同じ理由だけど、そのこともきっとわかっていない。彩斗はただ、私に会いたいと思って連絡をくれているのだろうし、私を可愛いと思って体に触れているのだろう。そういうところが、とても滑稽で大好きだ。本人には言わないけど、大好きだ。この感情もただの性欲かもしれないけど、欲は他の感情よりもずっと確かなもので、凄く素直なものだ。だから、これでいいのだと思う。彼の欲が満たされると嬉しいし、温度が離れていくと、とても悲しい。だからまた会うんでしょ?と珍しく秒で返信をくれた愛美には、この世界がどう映っているのかしら。温度を忘れて興味もなくなるくらいなら嫌いになりたい。忘れられて彼の中からいなくなるくらいなら嫌われてしまいたい。そう思って時々わざと傷つけるのに、お腹とお腹が直接ピタッって重なった瞬間に、全部どうでもよくなって許して、許されてしまうから可笑しい。

    彩斗に他の女でもいれば私の気持ちはもう少し楽になるのに。本当は同性を愛していたりするなら、もっと楽になれるのに。そうじゃないから、私たちは傷つけあう。いや、嘘だ。いつだって傷をつけるのは私で、それなのに傷ついてくれない彼をみて、私は勝手に、誰よりも傷ついてしまう。そんな遠回しな自傷をもう何度も繰り返している。

    男と女は違う生き物だとか、凸と凹だとか、そういう戯言に共感して笑う日もあれば、そんな訳ないと泣く日もある。男と女に限らず、他人同士はいつだって、本当のところはわかりあえないままなのだ。だから諦めた。諦めてから楽になった気がするけど、諦め切れない他人からは嫌われ続けている。そんなことに苛立つ日は、もう、髪の毛が生えているというだけで苛立ってしまう日だから、そのことももう諦めた。悲しいのも苦しいのも、ただこの体のせいで、時間が解決してくれて、時間しか解決してくれないことを最早私は知っている。人間は学習する生き物だから。そして自己愛が過剰なほどに強いから。だから、私は私を理解している。まぁそれも勘違いなのかもしれないけど。

    彩斗のことを毎日何時間も思い出すのに圭太に抱かれるのは、ただの習慣で大した理由はない。だけど圭太に組み敷かれているときに彩斗のことを思い出すのは、凄く、いい。何度も頭の中では彩斗の名前を呼んで、絶対に間違えないように気をつけて圭太の名前を呼ぶあの瞬間は、彩斗と繋がっているときと同じくらいに安心する。ああ、生きているなと思う。生きている、気持ちいい、嬉しい。体の中が、それだけになる。ふわぁっとして、間接照明の橙がやけに明るく見えて、あとちょっとのところで、私に私の体温が返ってくる。おかえりを言う元気はないけど、なんだ帰ってたのというほど曖昧ではない、私が私に還って
来るあの寂しい感じも、私はどこか好きなのだった。

    んで、結局誰が好きなの?3か月ぶりくらいに会った愛美に聞かれたから、自分?と心の中で言った。圭太の話をしても笑って聞いてくれる愛美のことが、結局一番好きなのかもね。実際にはそう言った。愛美は私の語尾を聞き終えてから、グラスのジンライムを飲み干した。私にとっては淡白で薄くて食べ飽きた身の上話が、彼女にとっては行きつけの店のいつものポテサラみたいな感じだといいな。そうだとしたら、私は嬉しい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?