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水族嬢

 去年水族館に行った子と、それとは別の水族館に行った。とまぁ、久しぶりに出かけた。私達の人生は、大きく、どうぶつの森前と、どうぶつの森後に分かれるのかもしれない。離れていても森の中で会い、ゲームの中の水族館も一緒に歩いて回った。そんなどうぶつの森後の私達の目に映る世界は、もう、それなしの頃とは違う。飽きたと思いつつ続けている私でさえ、その症状は顕著なものだ。日常生活で虫を見かけてもそうなのだから、水族館なんてうってつけである。ただひとつ正しておくなら、どうぶつの森後というのはもっと正確には、あつまれどうぶつの森後である。どうぶつの森自体の経験は幼い時分に済ませておいた。さて、やれあれはスズキっぽいだの、カサゴ400ベルだの、そんな話をする。このエビは茹でたら赤くなるのか、おいしいのか、そんな話もする。ニンゲンスキ、ニンゲンキライ、そんな話もする。クラゲの持ち方だの、揉み方だの、不毛且つフサフサな、そんな話もした。
リュウグウノツカイのおもちゃが入っているガチャポンを見て、角度を確認したりした。仕事のことや、家族のことも、時折話す。空いていてディスタンスの保たれた水の城で、水の流れと魚やペンギンを眺めながら。靡いている水草に、自分たちの進退を重ねながら。そして最後はそんな水の流れに行き着くことを、考えなくても知っているから、不安だけど、この上なく安心できた。正解のないことばかりを話す。手を伸ばせば答えに届くみたいに。その答えを知っているかのように話して、少し笑う。馬鹿らしいとか、その愛おしさとか。そんなことまでも笑う。

 「ペンギンになりたくないもん!」おみやげ売り場で、私は言った。「にんげんだもの」これは言わずにただ思った。ペンギンをかたどったガムが売られていたから、そんなことを言った。観光不振で売れ残ったのかもしれないガムを見たから、そんなことを言った。食べたらペンギンになるのかもね。そんな、子どもにも馬鹿にされるようなよくわからないことを、さっきまで真剣に家族の相談に乗っていた筈のこの口が、マスクに抱きしめられたままのこの口が、そんなことを言った。やはり馬鹿らしいと思う。そして愛おしいと思う。自分のことを愛おしいだなんて普通は言いはしないけれど、だけど確かに、何だか愛おしいと思った。あの瞬間、馬鹿なことを言っているとわかっていたから。それなのにしっかり本気で、「ペンギンになりたくないもん!」と言っていたから。
 そして、明るさに似合わず時刻は夕飯時、だけども甘味を求めていた私達は、ガレットを食べた。私は頼みながら、「ガレットだなぁ。」と思ったし、食べながらも、「ガレットだなぁ。」と思った。それは間違いなくガレットだったから、当たり前なのだけれど。だけどそういえば私は、間違いのガレットを知らない。
 共通の知人の話をした。だって共通の知人だから。そして少し、昔の話。お互いの瘡蓋をちょっとずつ捲る。少しだけ血が出て、丁寧に消毒する。古傷は、瘡蓋を捲り合う前より、少しだけ奇麗になる。もともと汚くはなかったんだと知って、胸を2回撫でる。

 「ガレットだったね。」とは言わなかった。だって、ガレットだったから。「ペンギンになりたくないもん!」と言ったのは、ペンギンになりたくなかったからだった。
それから、次に会う約束をした。次があるのか、生きているのか、次に会うことに意味はあるのか。不確実なことばかりだから、「また会おうね。」と言った。いや、そうではなかったかもしれない。私はまた遊びたいと思ったから、「そうだね、また遊ぼうね。」と言った。「また遊ぼうね!」と言われたから、「そうだね、また遊ぼうね。」と言った。彼女はどうして、「また遊ぼうね!」と私に言ったのだろうか。正確な答えは知り得ないけれど、この場合の最も単純な思考回路且つ最も簡単な理由からだと嬉しい。
明日にも水は流れ続けている。寝て、起きて、生きるだけ。それでも流れてくれるから。

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