喪われる私たち

 私はこの町を知らない。ずっと我が家に帰りたいと願っている。愛する家族の暮らす家に。それなのにもうずっと長い間この知らない町の、知らない家に閉じ込められたまま。

この家には電気が通っているようだけどその形態も特殊で、私には使い方がわからない。電気のつけ方さえ教えてくれないものだから、夜が来ても電気をつけられなかったり、朝が来て、昼になっても明かりを落とせなかったりする。暑さを凌ぐ扇風機もない。ただたまに天井から風が吹いたりする。どこかから、知らない誰かの声が聞こえたりもする。猫の鳴き声が一晩中うるさくてよく眠れないこともある。だけど、眠れなくて困るのは不眠になることだけで、私にはやらなければならないこともない。

毎日気が付いたら机の上に食べ物があって、気が向いたらそれを食べればいい。玄関の鍵は滅多に開いていなくて、いつも外にも出られない。目の前に積まれた紙の計算式を解くこと、本棚の本を読むこと、ずっとついたままのテレビを眺めること。それくらいしかやることがない。

時々、誰かに話しかけられる。だけど、年齢を聞かれても、今日の日付も知らないのに答えられるはずもない。強い風の音を聞いて、秋かしらとか、その程度の答にしか辿り着けない。毎日を数えるためのノートも、書きかけの詩も、気が付いたときにはもう手元にはなくて、それは知らない誰かに燃やされてしまう。娘から貰った大切な手紙も、婚約指輪も結婚指輪も、しょっちゅうあの女に取り上げられる。それでもいつか家族のもとに帰るために、私は息を続けるけど、いつの間にか手にも首にも皺が寄って、醜くなってしまって、きっと会えたって悲しい。私が救われますように、家族が幸せでありますように。

 おばあちゃんはいつもこう話して泣き始めるから、私はおかあさんに貰った赤い頭巾で、そっと涙を拭いてあげるの。

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