胃の名前

    誰かが私の体の中を歩いている。なんだか少し、くすぐったい。胃の壁を、ウロウロウロウロしている。こそばゆいけど、嫌ではない。私は私の胃を見たことがない。本当は夢の中で一度だけ見たことがあるけど、夢はあくまで夢なので、本当は見たことがない。私は私の胃に触ったことがない。触ったことがないどころか、触り方も知らない。形も色も固有名も知らない。私が私の胃の名前を知らないなんて、おかしな話だ。だけど、私は私の胃を呼んだことがないから、今まで名前を知らないことに気がつくこともなかった。
私の胃の辺りを歩いている誰かは、私の胃の形を知っている。私の胃の色を知っている。それなら私の胃の名前も知っているのだろうか。そして、呼んでいるのだろうか。もし知っているのなら、呼んであげてほしい。私の胃の名前を呼んで、ちゃんと可愛がってあげてほしい。私の体の中を歩いている人は、私ではない。それなのに、私の体の中の形を知っている。私の体の中の色を知っている。私よりもずっと、私みたいで、怖くて羨ましくて悔しい。だけどこの体の中に、私よりももっと私みたいな誰かがいるのだとしたら、私にはとても心強い。私よりもずっと私のことを知っている誰かは、私よりもずっと私のことを知っている。私よりももっと、私のことを、知ってくれている。嬉しい。恥ずかしい。嬉しい。私は私になるために頑張らなくてもいいのか。私は誰よりもずっと私で、私は他の誰よりも私ではない。生まれたときからこれまでずっとそうだった。そうだったのかもしれない。
    私が私の体の中を歩く誰かに気がついたのは、実は今日が初めてだ。だけど、ずっと前から、いてくれたのだと思う。きっとずっと、私の体の中を歩き続けてきたのだろう。労わりかたも呼びかたも分からない、私ではない私。なんとなく愛おしくて、それでいておぞましい。私にさまざまな感情を芽生えさせる私。そんな私が、私の体の中をいつまでも歩いている。

    君の体の中には、君に似ていて君ではない君がいるだろうか。いると面白いね。君を君ではなくしてしまう君が、君の体の中にも、どうせいる。

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