春めいて

 おじさんと一緒に歩いた。おじさんは、私のおじさんではない。つまり、叔父や伯父ではない。ただのそこら辺のおじさんだ。おじさんの定義を私は知らない。その人に、おじさんですか?と確かめてもいない。だから、おじさんは実はおじさんではないのかもしれない。おじさんをおじさんと断定することは差別なのかもしれない。ジェンダー問題に発展するのかもしれない。だけど私はおじさんを一目みたときにおじさんだと思った。おじさんですか?と聞くまでもなく、おじさんはおじさんに見える。おじさんは、桜の木の下を通るときに立ち止まる。スマホで写真を撮ることもなく、綺麗だねと口にすることもなく、ただ立ち止まる。見上げて、少し眩しそうな顔をして、少し笑って、また歩き出す。綺麗、と私が言うと、うん。と静かに頷いた。

おじさんは、猫の横を通るときは速く歩く。とても速く歩く。だけど、決して走ることはせず、ただ速く歩く。猫、怖いですか?私が聞くとおじさんは、首を傾げて少し笑った。私は犬、苦手です。そう言うと、おじさんは私に桜の花びらを一片渡して、大丈夫だよ。と言った。

 いつだったろう。そんなことを思い出した。あれは春だった。桜が咲いていたから春だった。おじさんは、おじさんだった。私はおばさんになった。私がおばさんになったということは、おじさんは何になったのだろう。おじさんはおじさんのままでいる気がする。なんとなくそんな気がする。だけど、おじさんはもともとおじさんだったのか、本当のことは何も知らないから、本当のことは何もわからない。私は、桜の花びらを、男の子に渡した。男の子は、私のことをおじさんと思っただろうか。おばさんと思っただろうか。どちらだとしても、私はおばさんだ。さっき私が桜の花びらを渡した男の子は、本当に男の子なのだろうか。君は男の子ですか?私はあの子にそう聞いていない。だから、男なのかも、子なのかも、本当のところはわからない。ただ私には男の子に見えた。ただなんとなくそう見えた。

猫が横を通る。私はなんとなく速く歩く。桜の木の下をまた通る。私は立ち止まって見上げて、眩しそうな顔をして、少し笑う。大丈夫だよ。そう言って、また歩く。後は、家に帰って、冷蔵庫のプリンを食べて、お布団で寝るだけ。ただそれだけ。

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