クリープハイプのライブに行ったよという話。レポートでもネタバレでもない

 緊急事態宣言の最中、首都東京。この街でロックバンドのライブが行われることを、私は罪だとは思えなかった。ロックバンドがライブをすることが真に不要不急であると、一体誰が言い切れるのだろうか。聴き手がそれを待ち望むことを、誰が不要不急だと断言できるのだろうか。私はしかし、この憎き感染症の流行が、否応なく私に与えた不自由な時間というものも、決して否定しようとは思えないのである。

 クリープハイプというバンドのライブに行った。今日、今夜正にだ。私は彼らの曲を聴くのが好きだった。ライブをみるのが好きだった。それくらいの正義が、まだ私の体に残っているのか、それとももう流れ出してどこか遠くの町まで運ばれてしまったのか、私はそれくらいのことも知らなかった。あるのは、通勤時間の削減等により曲をあまり聴かなくなったという事実と、彼らが今どうしているのかも分からないという事実、それだけだった。

 それなのに、私は彼らの演奏をみていると、幸せだと思ったのだった。幸せの定義も定理も何もかも知らないし、そんな概念信じてさえもいないのに、確定的に、そう思ったのだった。そこにあるのは、彼らが生きているということだけだ。それは、私が生きているということだ。ただそれだけの、ただそれだけの事実だ。それだけの事実を、その真実を、私はしかし死ぬほど嬉しいと感じたのだった。生きていることが死ぬほど嬉しいと、言葉にすれば少し変だけど、それでもそう感じたのだった。

 毎曲、いや、毎秒、瞬間毎に、体内を駆け巡る私の感情が、甘いとか、好きとか嫌いとか、嬉しいとか面白いとか、愉しいとか、楽しかったよなとか、そういう感情が、私は多分好きなのだった。普段目を逸らしてしまう自分と向き合える下らない時間を、嫌わないで居られる場所があることはとても喜ばしいことだ。証明できなくて、論理的でもない、それでも不確かではない私の感情が、許される時間が、私は好きなのだった。彼らの曲を聴いて思い出すのは、宇宙の成立のいわれや世界平和やウイルスの脅威や、そういう公なことではなくて、もっと生の根本的な、喜びとか悲しみとかそういう、私と彼らとかそういう、それくらいの矮小な世界のことばかりである。ちっぽけだから、愛しいのだ。弱弱しくて誰にも気付かれることはないから、だから愛してやりたいのだ。この酷くちっぽけな世界を、私は意地で愛でてやりたいのだ。そうやって強がるために、彼らは私に歌うのだ。決して私一人のためには演奏しない彼らが、私のために、歌うのだ。

 面白かったよ。面白いは私にとって最大級の褒め言葉だからね。だから安心して受け取ってほしい。できれば返品はしないで、気に食わなくてもそれなりに愛着が湧くように願う。不確かな好きより一時の快楽のほうが素直で従順だから。だから信じてほしい。信じてほしいんだよ、私のことをではなくて、それ以外の何かをね。私は信じてなんていないけど、だけど結局今夜も愉しかったから。だから負けましたって両手を上げさせて。不服そうな顔に見えたってちゃんと愛してしまうから。だから、嫌いだ。とか、それくらいは一応言っておきたいわ。だけどね、今夜は、ありがとうと、お疲れ様を言いたいの。天邪鬼な私ですから。

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