白線の内側

 あの日のことは今でもはっきりと覚えている。私があの日あの時ステージに立つ彼の首に手をかけたのは、私が彼の曲を終わらせたいと思ったからだった。もう他の誰のためにも歌わせてやらないと、そう思って彼の首を絞めたのだ。
私を無性に苛立たせたのは、彼らには専属のスタッフなどいなくて、止めに来たのはそのライブハウスのスタッフだったことだ。あの男は、もう少しで本当に殺せてしまえたかもしれないタイミングで、彼と私を引き離したのだった。同じステージに立っていたであろうバンドメンバーはあの瞬間何をしていたのだろう。同じステージに立つバンドボーカルが気の狂ったファンの女に殺されそうになっているところを、ただボーっと眺めていたのだろうか。自分に危害が加わるのが怖くて助けるという発想がなかったのだろうか。
私はいつもボーカルの彼のことだけを見ていた。私のために歌う、彼のことだけを見ていた。そして私は、私があんな行動を取ったことに他の誰よりも驚いていた。騒動になると、私の髪形を過剰に褒めていた鼻にかかった声の女だって、あの人は少し変わったところがあったとか、平気で言ってくれる。唯一のファン仲間だった鼻の下の毛の濃い女だって、同じように私を揶揄したのだった。
私が笑顔で彼の首を絞めて私のものにしてあげたかった彼のあの曲は、皮肉にも私が彼の首を絞めたせいで少し有名になった。世間はその曲をラヴソングと呼んだ。私にはその曲がそんな安い言葉で語られるべき曲には到底思えなかった。曲を作った彼自身はあの名曲を、特別な何かじゃなくて数ある自分の曲の一つだと言った。あの名曲、そんな言葉で語り草にしてしまう私も、あの名曲を史上最強のラヴソングと呼んだ女たちと同罪なのである。
彼は、あの日から少しの間精神的な治療を受けて、ステージに復帰した。その頃には自動的に有名になったあの曲のお陰で彼らはいくらか売れていて、気の狂ったファンを抑え込むべく専属のスタッフも付いていた。彼の傷ついていく様を間近で見ていたであろうその他メンバーも自動的に売れるとは、可笑しな話である。

    私はあの日から、皴が充分に深くなるくらいの期間、暗い、暗い部屋で過ごした。そしてそれから、スーパーでレジ打ちのバイトをした。深夜バイトを希望したのに、女は品出しも一人勤務もできないからと、昼間の勤務にされた。だから、明るい。外は明るい。
時々、あの名曲を女のシンガーソングライターが歌ったカバーが店内で流れる。若い世代は、彼女の曲がオリジナルだと思っていると聞いた。私が奪いたかったあの曲は、私のせいで大衆に消費されて、どこかの気の狂った、ファンなのかすらも分からない営利目的の女に、奪い去られてしまったのだった。
こんな汚い声で歌われている自分の曲に、彼は、歌ってくださって嬉しいと言っていた。そういうところ、少しも変わっていない。あの日、あの頃から、少しも、変わっていない。ステージ上で首を絞めた女にも、幸せになればいいと言った。私は、未だにずっと、死に絶えるまで、彼の曲のことを愛してしまう。彼のことが、ずっと忘れられなくて、夜は死にたくなる。だから働きたかった。結局昼間に働いて、ラヴソングカバー女を殺したくなっている。殺し損ないの私なんかが、今でも愛してしまうのは、私自身とそれ以外。

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