シチュー曖昧

 甘い甘いだけの時間はとうに過ぎ去って、ここには曖昧とシチューだけが残る。ご飯とパン、それぞれが好きな方だけを食べるようになってから、もうどれくらいが経っただろう。いつどの瞬間に、私たちは歩み寄ることをしなくなったのか。そういう思い出せないことは思い出さなくていい。時間は、そういう要らないものを少しずつ削ってくれて、同時に、少しずつ趣や風情のようなものも減らしていく。

余ったシチューを温め直すときに、私がご飯を選ぶことはやはりないように、夫もまた、パンを選ぶことはない。私がパスタにして食べたときだって、彼はご飯とシチューを食べていた。

曖昧とは、時間の産物だ。元より個人の感覚に圧倒されてあやふやな物事が、時間が経つにつれてより不確実になる。そうしていつの間にか、曖昧に成り代わってくれる。曖昧が尊いのは、そこに可能性が感じられるからだと、言っていたのは夫だったろうか。それとも、それ以外の誰かだったろうか。

 歳を取ると、本当に誰かを愛することはできなくなるのかもしれない。最期まで連れそう夫婦にも、いい歳をして離婚に踏み切る夫婦にも、そんなに大した感情なんてないのだと思う。愛や憎しみなんてものは、錯覚や暇潰しに過ぎないから、年寄りには、不必要だ。生を過剰に錯覚している今、暇を潰す必要も、もうない。

そもそも、本当に誰かを愛するなんて、そんなことが存在するのかもわからない。ある本には、愛という言葉に責任を転嫁する哀しき性について云々と書かれていた。確かに愛という言葉には、それを口にするだけでそれっぽいなと満足できてしまうような、ちゃちな魔力があるのかもしれない。

 夫は、ゴルフか競馬か競輪か、そのへんの遊びに出かけて、私は謳う程でもない自由の時間。部屋には曖昧とシチューと私。庭には2羽ニワトリがいる。なんていう小気味の良いことは現実の世界にはまぁなくて、それでも理由さえもなく、鼻歌を歌ってみたりする。

曖昧は曖昧のままで、英語の代名詞の暗記表みたいに続きなんてない。だからそこには責任も義務もない。妙に居心地のいい曖昧を、私はゾンビのように揺蕩う。誰かが愛という''言葉''に縋り続けるのを横目に。どう?まるで自由の女神でしょう?

 夫が早々に帰って来ても、もし仮にこのまま帰って来なくても、曖昧と私は同じ部屋に住まい続けるの。だけど恐らく彼は今夜も、そこそこの時間にはこの家に帰ってくるでしょう。だから仕方がないから相変わらず、私は夫を待ち続けるの。

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