羽田圭介を読む

    タイトルで大口を叩いてはいるが、私はまだ彼の作品を数冊しか読んだことがない。今また彼の書いた小説を読んでいる、その最中だ。それなのに読み進めるよりも先に何故こんな知った風な文章を書き始めたのか。それは、私にはまだその権利があるからだ。私はまだただの読者に過ぎない。ファンというのは便利な言葉だが面倒なもので、そう位置づいたときからもう誰誰のファンという存在になってしまう。私は羽田圭介のファンではない。だからこの文章を書いている。

    羽田圭介、彼は何者なのだろうか。芥川賞受賞作家、である。そうだ、確かにその通りだ。だが私は別に彼の肩書きや受賞歴を問いかけている訳ではない。羽田圭介とは一体どんな生き物なのか。そのことについて考えている。

    作家でありながらメディアへの露出を惜しまない。それは、知られていることが読まれるうえで意味となるからであるらしい。確かに書き手を知って読むのと知らずに読むのとでは受ける印象は違ってくる。何を言っているかに誰が言っているのかを乗っける作業が作家職にとって正しいのか否かは各々が決めるべきことだ。メディア露出の多い作家もいれば、あまり表舞台には顔を出したがらない作家もいる。彼がテレビに出る理由を話しているのを聞いたときに面白い人だなと思ったから、私は術中にハマってしまった。ということになるのかもしれない。

    ラジオMCやYoutuberとしての活動もしている。どういうつもりなのだろう。いや、今の時代、ミュージシャンやお笑い芸人が本を書いたり、動画配信をしたり、そんなことは珍しくもなんともない。だから作家である彼の活動が多岐にわたっていることも何ら不自然ではない。それなのに、彼は何を企んでいるのだろうと気にしてしまうのは、彼の書いた小説を、読んだことがあるからなのかもしれない。

   彼の書く小説に出てくる人物には、極端な性格をもつ者が多い。少なくとも私の読んだことのある作品においてはそうだ。だが、その人物たちが果たしてそれほど異常な行動をとっているのか、思考をしているのかと考えると、実はそうでもないように思う。その登場人物たちを“執拗”にみせているのは、彼の書く文章だ。だとしたらその文章のなにが主人公たちをそうさせているのだろうか。それは、描写の細かさだったり、登場人物の自分へ言い聞かせるような言い訳の数々だったり、理屈と屁理屈の反復だったり。するのだろうが、結局そうさせているのが彼自身だということは、彼が、執拗な人間ということなのかもしれない。その執拗さが登場人物たちまでもを執拗たらしめている。そうだとしたら不思議と、彼自身の存在への執着にも、合点がいくように思える。

    羽田圭介、彼は何者なのだろうか。私は彼を信じるべきだろうか、疑い続けるべきだろうか。問いかけても誰も答えてはくれないから、もっと、彼の書いたものを読むしかない。彼の動画をみてみるのもいい。うーん、なんだろう、これではまるで、彼の手中な気がして少し悔しい。前提として、彼の書いた小説に気に入ったものがあったからといって彼自身のことや人間性を知る義務もないし、すべての小説を好きになる必要もない。読みかけで実家に置いてきたあの本の続きは、永遠に読まなくたっていい。でも結局、読むのも読まないのも、知ろうとするのも敢えてそうしないのも、負けのような気がするからどうしようもない。そもそもそんな戦争、始めた覚えもないのだけれど。

    私は羽田圭介のファンになるだろうか、アンチになるだろうか。好きになるだろうか、嫌いになるだろうか。そのどちらにも属さないという選択肢はもう有り得ない気がして、今夜ドキドキが鳴り止まない。

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