梅雨あがき

 7月の初め、何故かまだ明けない梅雨の湿度の中を彷徨っていた。ふらふら歩いていると、そこにある電信柱に目が留まる。私がもし蝉だったら、この電柱に止まってミンミン泣いて、命を燃やすことだろう。そう思ったが、何かおかしい。蝉は一般的に、電柱なんかに止まらない。木に止まって、その樹液を吸うはずだ。電柱なんかに止まっていたら、仲間たち皆に馬鹿にされて、折角の鳴き声も台無しになってしまう。それはとても悲しいことだ。だからそうならないために、私はやはり私でなければならない。

道路脇の一端の電柱に吸い寄せられて、そこに止まる。私はその棒から電波を吸う。痛覚を奇妙に刺激するその電波の味に戸惑いながらも、吸うことをやめるまで吸い続ける。私の横をほかの人間たちが通る。認知症を抱えていて絶賛徘徊中のおばあさんは、私を心配そうに見て、何度か声をかける。そのうち諦めてまた歩き出す。そうしてどこか遠方で、安全パトロールをしているおじいさんといい関係になって、娘の手から離れるのかもしれない。どこかの交番で自らの進路を尋ねて、保護されてしまうのかもしれない。どちらにしても実は悪いものではなくて、その両方に、それなりに自由は存在する。指をさして通った近所の小学生たちの中に、将来汚職に手を染める優等生がいたとしても、今の私には関係がない。

 私はただ、泣き続けた。電波を吸って、吸って、吸って、疲れ果てるまで泣き続けた。悲しくもなければ、感動もしていない。見つけて欲しい訳でもないのに、鳴き続けて、泣き続けた。不意に私の鳴き声が止んだ。たくさん吸って蓄えた電波を、どこに、誰に届ければいいのだろう。そんなことを考えた。必要としている人のところへ流れるべきだ。そんな当たり前のことを、権力をもった人たちはいとも簡単に忘れてしまう。もし最初から知らないのなら、気が付いていないのなら、そんなに切ないことはない。

 私にはわからなかった。必要としている人のところにそれを届けない理由がわからなかった。言い分は全部言い訳だから、怒りたくなくても、どうしても腹が立った。でも情けないことに、私には他にもわからないことがある。必要としているどこかに、何かを届けるその方法を、私は知らなかった。だけど確かにもっているものがあった。それが、吸って貯めた電波だった。私にできることを静かに考えた。電波があれば知ることができる。誰がどこで、何を必要としているのかを。

    でも調べる前にも、もっとできることがあるのかもしれない。さっき通り過ぎたおばあさんやその娘の人知れぬ気苦労に、はたまたあのいい子ちゃんな小学生に。もっと寄り添うことができるのかもしれない。目に見えない電波で得られる様々とちょうど同じくらい、この目に見える繋がりが齎せるものはある。そう思いたい。そして序でに、私が私であるということも意味であってくれるといい。私が私の力で少しだけ問題を提起できたことに、価値と尊さがあるから。考えること、それと泣けるということ。それができる私は、生きていてもいいんだと思えた。

 遠くで蝉が鳴いている。夏のリハーサルも佳境を迎えたらしい。もうすぐ梅雨が明けて本番になるからね。青空の下、また会おう。熱さで溶けてしまえるように。

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