コロナに殺されないでくれ

 緊急事態宣言という物々しい言葉にも聞きなじみを覚えてしまった。飲食店で深夜勤務をしていた私が、介護の仕事に出戻ってから、一年が経とうとしている。商店街にぶら下がっていた五輪のエンブレムも空しく、東京オリンピックが開催されなかった2020年の先の、今は2021年だ。この一年を空白の一年と言っている人もいるようだが、私にとってはこの一年もまた、人生の失うことのない一年だった。

 私がコロナの影響を肌で感じたのは、2020年2月の終わり、帰省先の岡山から向かう予定だった広島での音楽ライブが中止になったときだった。イベントの中止、自粛要請、緊急事態宣言。2019年までの日本とは異なる空気感に聞きなれない言葉たち。私たちが実感してもしなくても、ウイルスの脅威は刻一刻と生活に近づいてきていた。

本当に怖いのはウイルスか、翻弄される人間か。ニュース番組を見ると、正反対の意見を、同じ番組内で報道している。正しさとは何か不明瞭な中で、私たちの当たり前は少しずつだが確実に損なわれていった。不要不急な外出の定義とは何か。他人が形式的に決められるものではないことを、制度は決めなければならない。決まりごとが増えて、要請が増える度に、冷たい戦いには火が付くようだった。私たちにとって大事なことは何なのか。決まり事を守ることか、大切な人を守ることか。どうしたら守りたいものを守れるのか。そういう大切なことを、考えるという大切な行為を、この一年以上沢山の人が何度だって繰り返している。これまで以上に繰り返している。決まり事を守る理由が、決まり事を守るためだけなら、そんなにつまらないことはない。私たちが赤信号を渡らない最大の理由は、誰かを傷つけないためであり、自分を傷つけないためである。そうであってほしい。理由を考えずに従うのも反抗するのも簡単だ。しかし、それだと面白くはない。私たちはお国のものではない。私たちの国なのだ。国が生きていくための私たちではなくて、私たちが生きていくための国なのだ。いつだって、そうであるべきだ。

 過激にも感じる要請の内容に、文句を言うだけなら簡単だが、私たちは考えなければならない。そのために、今の日本の現状を、例えばワクチンの接種状況やクラスターの発生状況などを、知らなければならない。ウイルスの特性や弱点を、専門家の力を借りて知り、対策を取らなければならない。その上で、有効性の確立されていない要請の内容をどう思うか。それを話し合っていく。前例に乏しい事態の中で、最早正しさはここには存在していない。偉い人の言うことが正しいかどうかは果たして分からない。だから学び、そして知る。知って話し合う。そうやってお互い納得のできる妥協点を見つけて、少しでも多くの生命や、心が、失われないことを祈っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?