真夜中の来客

 真夜中、戸を叩いての来客があった。覗き穴から確認すると、そこにはオバサンが立っていた。戸を開けると、女は、きみ子と名乗った。かと思うと私の眼鏡を外して、額に手をあててみせた。そのとき、一瞬ぼやけていたきみ子の顔が明確に見えた。眼鏡はきみ子の左手にある。これまた不思議なことだと、家に彼女を招き入れた。

 きみ子は、何も言わずダイニングの椅子に腰を下ろしたかと思うと、指をひとつ、パチンと鳴らしてみせた。いつの間にか彼女は、さっきまで私のかけていた黒縁の眼鏡をかけていた。彼女は、台所の換気扇に目を向け、何やら微笑んでいる。それから幾らか話しかけてみたが、はい、ああ、ええ、とか、曖昧な返事しかしないものだからつまらなくなって、私はダイニングに彼女を残したまま寝床に入ってしまった。

さて果たして、 真夜中にやってきた見ず知らずの女を隣の部屋に残したまま、眠り落ちて良いものだろうか。しかもその女は、他人の視力を回復させてみせるような、奇妙な奴だ。口数も少ない。だが何故か、親しみのあるような、疑う余地のないような佇まいでもある。しかしそれにしてもどうしたものだろう。仮に彼女が、そういう特別な能力を持っているとして、態々他人の私にその芸を施す理由などあっただろうか。丑三つ時、家に訪ねて来てまでも。

 出会った日には、そんなことも思った。だけどあれからずっと、きみ子はその椅子に座ったままだ。もう2か月程経っただろう。彼女は果たして、人間なのだろうか。私の居ない間に出かけ、飲み食いしているとしても。そうだとしても不思議だ。異臭がすることもなければ、腹が鳴ることもない。屁をこくこともなければ、欠伸をしてやることもない。うつらうつらと首を落とすこともなく、眠っている素振りも殆ど見せない。それなのに奇妙さは薄く、目尻の皺はオバサンそのものに見える。

 それからもきみ子は簡単な返答しかしたがらず、ただ空気のようにそこにあり、偶に換気扇のほうを見やって微笑むだけだったが時折、私の体や心を良くしてくれた。そしていつもその少し後に、指をパチンと鳴らすのであった。

 はて、どうしたものだろう。私は先程きみ子に、例によって虫歯を治してもらった(無論、彼女の自主的な行為によるものである)。もしかして、私は彼女の恩人なのではないか。そう考えては見たものの、オバサンを助けた憶えは愚か、鶴や亀や兎さえ助けてやった記憶はない。彼女の益を考えようも、さても思いに至らない。

 明くる朝のこと。いつものように時折、換気扇に微笑む彼女の顔が、前の朝と少し違って見えた。よくよくみると、きみ子がいつかこの家を訪ねてきたあの晩から、彼女は随分と草臥れ、痛々しくなったように思う。皺も白髪も殖え、髭も少しばかり生え、口には虫歯が覗いている。こうも劣化したのに、全然気がつかなった。それは一度も、不快な感じを得なかったからであった。

 きみ子と何夜、同じ屋根の下に眠っただろう。今更気がついてゾッとしたのは、彼女の虫歯が、昨日までこの私の口の中に収まっていたそれにどうも類似しているということである。よく見ればあの皺も鏡に見覚えがある。それに何よりあの黒縁の眼鏡は、私の生活には欠かせないそれだった筈なのだ。

 さて、それに気づいてしまったら居てもたってもいられない。彼女を手放すべきか、否か。私には見当がつかない。もしかしてそもそも彼女は、私の作った幻影ではなかろうか。そんな気の狂った話は御免でも、今やどちらにしてもおかしいのだ。それなら単純に片がつくほうに願いをかけてしまうのに無理はない。そうであればと思った。依然、目を凝らしても彼女は椅子に座ったままなのだけれど。

 きみ子に話があると伝えて、向かいに立つ。相変わらず彼女は換気扇のほうを気にするばかりで、気の抜けた返事をするだけだ。私は気づいてしまったのだと、そう、伝えてしまったのに、やる気なく、そうですか、と。ただ虫歯を覗かせてみせるだけであった。

 私の受けるべき苦痛を引き受けるきみ子。彼女は果たして不憫なのであろうか。考えてみたがわからない。先ずそれは私が頼んだものではない。彼女の義理によるともあまり思えない。きみ子は私の苦痛たちを栄養としていると考えるのが妥当か。いや、そんなのただこちらに都合のいい解釈なのではないか。そもそも彼女は存在しているのだろうか。存在していたのだろうか。そして何故、いつも換気扇のほうばかりを気にかけてやるのだろうか。わからないことばかりだ。これだけの時を同じくしているのに、私には、彼女が生きているのかさえ不明瞭である。

 明日朝起きて、彼女が消えているとして、私の顔に、髪に、口の中に、その老いが戻ってくるのだろうか。それは当然のことなのに、なんだか自分が不憫に感じられた。仮に少しづつこの体に戻ってくるとしても、そんな気苦労はしたくないし醜いと、きみ子という罪なき鏡に思ってしまった。明朝、きみ子は相も変わらず、あの椅子に座っているのだろうか。そうだといい。いや、どちらだっていい。私はただ、自分に痛みが返還されないことを月に頼む。そんなどうしようもない今夜を過ごしている。

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