システムエラー

 設定に引っ張られて生きていくのは楽だ。年齢や生活ごとに、こうすべきであるというライフステージは決まっている。時代のトレンドもあるが、大きな枠組みはそれでも変わらずにあり続けている。今の時代はやたらと多様性を連呼していて厄介だが、多様性を認める側の凡庸な人が結局は一番好かれるのである。反抗期も、社会生活を送るには過剰な性欲も、ただこの体にプログラミングされているだけのものだ。だから、憂いも罪悪感も無意味である。ほんの少しの羞恥と反省の色で、生きていることは認められていく。動物であることをやめられない人間は、定型文を、この上なく好むのである。中学校に入学してすぐの頃に習った、全国共通の英語の例文に安心するように、皆の知っている生き方に皆安心するものなのだ。性的少数者も社会的弱者もこの世には存在している。存在していていい。その存在を、私たちのような普通の人が認めることこそが、この世界では大切なのだ。役割を果たすという役割以上に価値のあることなんて、この世の中にはない。自由に漂って句を詠んだ俳人に魅力を感じるのは、決して交わることがないからだ。異端は、この秩序的な社会の中では、本当は目障りな存在でしかない。だけどそれを認めるということが、生産性になるのである。

敷かれたレールの上を歩くのは御免だと歌うロックシンガーがいる。それを許しているのはやはり私たちのような常人たちで、結局許してもらうことでしか、彼らは生きてはいけないのだ。同性婚を認める部外者の私達こそが、彼なのか彼女なのかそうではないあの人なのか、とにかく風変わりな他人を許してあげているのだ。

そうでないのなら、認めるか認めないかの議論なんて息苦しいだけだと、とうに気がついているはずである。正常を信じて基準にすることの不気味さに、気がついて嘆いているはずである。

    私にも仲の良い友達がいた。確かにかつてはいたのだが、その顔さえも曖昧になった。連絡を絶ったのは私の不格好なプライドだ。もう名前しか覚えていないのに、時々夢に出てくる。夢の中でも、あの人の聡明さは変わらない。あの頃と何一つ変わらない。本当は顔もそれ以外もきっと変わっているはずだ。でも、私の頭の中では、もう動かない。こうやって私はたくさんの人をこの脳内で殺してきたのだ思う。あの頃、あの子のことを許せなかったのは、あの子のことを認めたくなかったからだ。そのほうが、私にとって都合がよかったからだ。

ああ、何のために生きているのだろう。何のために生きていくのだろう。今でも誰かに殺され続けているであろうあの人の糧になりたかった。私にはなれなかった。冥福を祈り続けることしかできないまま生きるだけだ。なんて、今回のアプデの追加コンテンツはいやに重くて、容量が追いつかない。さて、どうしようね。

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