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コスパ、タイパ、ハピパ


生きるだとか、死ぬだとかについて毎日考えている。なぜいつかは死ぬのに生きるのか、生まれてきた意味、死後の世界。何も精神を病んでいたり、暗い気持ちの中にいるわけではないのだが、これが頭の中に居続ける状態が定期的に訪れる。小学生の頃には死が怖くて眠れないことがあったり、大人になってからは、逆にいつかは誰もが死ぬということに勇気づけられたりすることもある。例えば大きなステージの前、大事な本番の日、失敗した日。いつか私も、その瞬間を見ていた人も、死んで記憶がなくなるのだから、結果はどうであれ後悔なくやろう、という気持ちになれるのだ。

こんな話をすると、知人や友人からは「大袈裟だ」とか「考えが極端だ」などと言われるのだが、周りがそうじゃないことが自分にとっては不思議なくらいで、簡単に「死」を口にするのは良くないこととはいえ、生の裏側には死があるという紛れもない事実。まあ、こんなことばかり考えて、脳内で討論を重ねている私は暇なのかという感じだが、やらなければならないことはたくさんある。書きかけの曲の続き、送られてきたコード譜の確認や照らし合わせ、卒業公演の準備、次のライブのセトリ提出、かけっぱなしの洗濯物など、あげたらキリがないのだが、この、頭の中にこびり付いている持論をどうにか発散しないと沸騰して溢れ出てしまいそうなのだ(現にこぼれてきたものを友人たちに話してドン引きされている)。

話は戻るが、そんな中で、周りは何かにつけて生きるだの死ぬだのなどと考えていないとしても、支払った対価から得られる満足度「コスパ」時間の効率よく物事を進める「タイパ」は私が好んでよく使う言葉だ。なぜなら明日は来る保証がないし、生き急いでいるから。例えば良い香りと色の入浴剤。一回の使用料にすると100円もかからないだろうが、1日の疲れを優しく洗い流してくれて、なんという幸福をもたらしてくれるだろう。コスパ最高。鏡付きiphoneのキラキラケース。超可愛い。見ただけであ〜私も女の子なんだな〜などと素敵な気持ちになれる。コスパ最高。成城石井の全粒粉ベーグル。3個入り400いくら、ぱっと見高いけど一個150円とかでこの美味しさなら全然問題ない、むしろ全粒粉って小麦粉よりGI値低くて健康的な気がするから安いくらいなのでコスパ最高。こんな感じで日々コスパを求めている。タイパも同じである。ライブ本番から特典会までの2時間、どれだけTikTokの撮り溜めを作れるか。そして編集までいけるか。朝起きてメイクの時間を短縮するために1ヶ月5000円のまつ毛エクステに通う(まつエクは1回1時間かかるため、トータルで言うと自分でビューラーであげるほうが安いが、まぶたの肉を挟んでまつ毛がほぼ抜けたと言う苦い経験があるのでよしとする)。帰り道はコーナーで差をつけろ。電子レンジで何か温めている間に明日の衣装の準備。全ての物事の進行というピースがうまくハマったら気持ちいいくらいに物事を円滑に進められる、我ながら気持ち悪いくらいの効率厨である。

そんな生活をずっと続けてきて、ふと思ったのだ、「これには何の意味がある?」と。コスパやタイパ、元を辿れば生と死についてあれこれ考えるくらいだからこの現世には非常に執着がある。そしてさんざん考え抜いた、なぜ生きるかという問いの答えは、今のところ、「なるべくたくさんの幸せを感じ取るため」に落ち着いた。また自分の中で何か変わるかもしれないが、とりあえずこれが現時点では納得がいくものだ。だって、死んだら、富も名声も全部なくなって、記憶も何もかもなくなって、白紙に戻るのだから、生きている間くらいはたくさん幸せを感じたほうが、生まれてきたコスパ良くない?と。ここで、幸せになる、ではなく、幸せを感じると表現しているのには理由があって、幸せになるってその基準は人それぞれ違うし、例えば年収〇〇円とか〇〇という企業に勤めるとか、高く設定するほど、本来目標を持つのは素晴らしいことなのに、「幸せ」が遠くにあるような気がしてしまうから。その目標がある、という状態こそが、幸せだ、と感じたほうが生きているその同じ時間得なんじゃないかと、そういう着地点になったのである。

そして、タイトルの最後にある「ハピパ」。これは、このような考えを続ける中で私が生み出した言葉だ。ハピパ=Happiness performance。
ハピネスパフォーマンス。
ある行動を起こす事で、どれほどの幸福を感じられるか。そんな意味合いでこの言葉を使用している(現時点では私の脳内でのみ)。
例えば今日仕事に行くとする。そこはだいぶ駅から離れていて、歩かなければならない。歩くのがそんなに好きではない私にとっては億劫になる移動だが、歩数計アプリでより多くの歩数を稼ぐ、という目的を持てば、ただの移動がゲーム感覚で楽しく行うことが出来る。また例えば空腹時にヘルシーなサラダチキンか、カロリーの高いコンビニホットスナックか迷った時、どちらが幸福度合いが高いだろうか、を軸に考える。もちろん体重に影響するかもしれないし、肌が荒れるかもしれない。ここでやみくもに、欲に負ける訳では無く、これを食べて体重が増え、少し胃がもたれる感覚になるかもしれない自分を想像し、いや、それでも食べた方が幸福度合いが高いと感じたら注文をするし、ヘルシーを選択して身体が軽い感覚の方が自分にとってよいのならば、そちらを選択する。
こういう、選択の基準を自分なりに持っていると、今までよりも毎日が軽快になった。
以前の自分は、物事に対して「こうじゃなきゃダメ」「こうであるべきだ」という考えを固め、自分で自分を追い込み、自分の首を絞めていたが、物事は常に変動していくし、それに対して100人入れば100通り、もしくはそれ以上の考えがある世の中で、「こうであるべき」などは自分のエゴの中でしか存在しないのだ。
生きるとは何か、死ぬとは何か、私はこれからも考え続けていくだろう。その中でより多くの幸せを感じるために、今は生きている。





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