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条件を外したら、願望はシンプルな一文になる

先月から絵を描きはじめた。

OLの頃は、銀座のアートスクールに通って、週末に絵を描くことを楽しみにしていた。初めての社会人生活で無意識に「ちゃんとしなきゃ」を発動させていた私にとって(とは言えきっと社会人標準なんてものがあったら全く適合できてなかったと思う)、会社にいる時に比べたらスケッチブックの上で私は自由だったけれど、誰に見せるわけでもない絵を描きながら、それでもどこかに他人の評価軸を感じてた。

「妹は絵が上手いけど私は…」
そんな自己評価がいつも頭の中にこびりついていたんだと思う。

写真を仕事にしてから写真について話す時、よく対になって頭の中に浮かんだことがある。

「絵が描けるなら、絵を描きたいんだけどね」

実際、何度かはそんなことを口にしたこともあると思う。

私は世の中の写真家について明るくない。
だから、ある意味自由だ。
自分の中にジャッジを持たなくて済む。

だけど、絵について言えば、好きな人がたくさんいる。特に、イラストレーター、と呼ばれる人たちについては。そして、その人たちの才能に感嘆して、自分は描くことを諦める。

私は写真を撮る時、絵を描いているといつも思う。

カリグラフィーを描いている時、
文章をかいているときでさえも、
絵を描いている感覚がある。
どこに色を乗せ、どこにどの分量の質感を置くか。
明るさは?光は?形は?色は?

写真はきっと、私の強みを生かせる分野だったんだと思う。依頼があって、それをビジュアル化することが得意だから。私の頭の中にあるイメージを再現するだけでいい。

写真は、いまや大切な私の一部になった。

だからこそ、今、自分のために絵を描いてみたい。
評価軸から離れて。
これは、ある意味、どこまで自分を開けるかの実験なんだ。このくらいでいいだろう、じゃなくて、全開にできるかどうかの。

「絵が描けるなら、絵を描きたいんだけどね」
そう言っていた私から「絵が描けるなら」という条件を外してあげようと思う。
「絵を描きたい」そのシンプルな一文でいい。




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