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心のままに生きる人たち

昨日、楽しい集いに誘っていただいて、参加してきた。

持ち寄りのマクロビオティックに基づいたお料理や、持ち寄った野菜などをその場でブラウンズフィールドの中島デコさん(10年前にブラウンズフィールドに宿泊させてもらったのはとても素敵な経験!)と料理研究家の高山晴代さんがささっとお料理を作ってくださったものを、森に運んでのピクニック。晴れ渡った空、じりじり肌を焦がすような日差し、カッコウの鳴き声、若々しい緑色の木々が風に揺れる。

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お話を聞いていると、皆さんとても身軽な方たちばかりだった。自然農や暮らしを作ることをベースにしながらも、場所にとらわれず、自分とは何かに囚われず、大切なものを大切にし、要らないものはあっさり手放している印象で、驚くほど瞳が澄んでいるのが印象的だった。それはもう、洗い流された直後、と言った様子で。

淡路島(だったかな?)に住んでいたけれど、助産院がなかったからと、信州へ移住してきたご家族は、今年中にはオランダへ移住するつもりだと言った。

季節によって、働く場所住む場所を変えている人もいた。

みんな、その時の心に正直に生きているのだなと感じた。

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そして、全く別の話になるのだけれど、最近、小田桐あさぎさんのこのブログを読んだ(私は数年前あさぎさんのオンラインサロンに入っていた)のだけど、あさぎさんは1ヶ月前にドバイに引越しをして、とっても人生が楽しく変化した、と書かれている。

今日、たまたま別の人と話していて、「お金が必要じゃない暮らしを選んでいく人と、六本木的なお金を稼ぐことを大切にする人たちで、二極化していくんだろうね」と言うのを聞いて、今日参加した会のことを思い出していた。

例えば、総額何百万円のブランド服に身を包んだと、エコライフしてる人たちが聞いても何も響かないだろう。逆に、自然農で自給自足していることを、年商ベースで動いている人に言っても響かないように思う。コミュニティによって、情報の価値の重要度が驚くほど違っている。それは、見ていて、シーソーがガタンと傾くようで面白い。

そして、確かに、そう言った二極化というのもあるのかもしれないけど、どちらにしても、心のままに生きることを選んだ人たちなんだな、と思った。それが、私の受け取った情報で、それはつまり、私のしたいことなのだと思う。

具体的な生き方に関していえば、ヒッピーのようなスタイルもドバイでのオイルマネーギラギラ生活も全く食指が動かない。だからなんとなく私って中途半端だわ、なんて感じてしまうけど、よくよく考えてみれば、私のしたいことは別の道なのだと言うことが発見できる。いつだって、道なき道を進んでる。そのことに気づけて、フォロワーじゃなくて開拓者精神に心くすぐられる私としては、とても嬉しい。

10年くらいまえに写真を始めた私は、いつも「写真を撮る仕事をしています」と言っていて、写真家と名乗ることをしなかった。それに対して「覚悟がない」と言うような言葉を向けられたこともある。だけど、自分のしたいことはもっとずっと奥深くにあって、「写真を撮りたい」なんて言うのはその手段でしかないし、ましてや「写真家になりたい」なんて思ったこともなかった。文章で表現したっていい、カリグラフィーでもいい、要は私の奥深くの表現をのせられる手段ならなんでも。肩書きになんてこだわらない。生き方そのもので表現できたらいい。最近になって、世の中の風潮的に、ようやくこのことを理解してもらえるようになってきた感じがある。

それと同じことだと思う。表に現れているわかりやすい部分は、むしろただの記号だ。自分で染めた服を着ているとか、ブランド服を着ているとか、それは共通言語のようなもの。それぞれの大切にしている記号だから、私はそれぞれを尊重したいと思う。その上で、芯の部分、魂のようなものの求めることを私はもっと理解して、叶えていきたい。友達とだって、表に現れた記号で判断するんじゃなくて、芯で付き合いたい。(逆に言えば、その過程も自然と見えるし、こう考えているからこそ、ビジュアルで整理して本質を伝えることが得意なんだろうと思う。)

ロールモデルがいないと嘆く人もいるけど、人の真似をして生きてたんじゃ、結局自分の人生にたどり着けない。自分の心に従って生きるのは、いつだって道無き道を進むことなんだ。



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