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シスターコンプレックス

 考えてみて欲しい。
 もしも好きな女が突然、自分以外の男と結婚すると言い出したら君なら平常心でいられるか?
 いられないだろう。ぼくはいられない。
 いままで一つ屋根の下で暮らしてきて、当然この先もずうっと共に過ごしてゆくことができるのだと思い込んでいたのに、いきなり見知らぬ男に横から掻っ攫われていくとしたらどうだろうか。
「祝福して欲しいの」
 ぼくの気持ちを知っている筈なのに、美咲は残酷にも薄く微笑んでそう言った。
 とんでもない。できるわけがない。だってそうだろう?美咲と結ばれるべきなのは他でもない、このぼくなんだから!
「気持ちはとても嬉しいけど、私達は姉弟なのよ、かおる」
 ため息まじりに、美咲……姉さんは頭を抱えてぼくをそう戒めたのだった。

 ああ、天気が良い。
 ぼくは忌々しい思いで雲ひとつなく晴れた空を睨んだ。嵐でも来てくれればいいのに。
 快晴に後押しされて意気揚々とやって来るヤツの顔が目に浮かぶようだ。会ったことないけど。
 今日は美咲の婚約者(認めないけどね!!)がウチの両親に挨拶をしに来る日だ。
 さてどうやってブチ壊してやろうかとぼくは真剣に悩んでいた。なんでもいい、なんとかしてヤツの面目を丸潰れにして、美咲に結婚を止めさせなくては!
 大体、ぼく以上に美咲を愛している男なんかいるわけがないのだ。
 ぼくは誰よりも長く美咲に惚れている。生まれたときから美咲だけを見詰めてきて、誰よりも美咲のことを知っているんだ。
 果たしてこんなぼくよりも美咲を幸せにできる男がいるだろうか?
 否! そんなヤツいるわけがない。美咲には絶対ぼくが必要なのだ。
 鼻息も荒く、ぼくは部屋から飛び出した。
 居間を覗いてみると、炬燵の前にはデカい図体を緊張で縮込めたオヤジがちょこんと正座していた。一張羅の背広はつんつるてんで時代遅れ。親父は昔気質の植木職人で、普段着慣れない背広なんかを着ると逆に威厳がなくなってしまう。
「ちょっとおとうさん、緊張しすぎじゃないですか」
 母さんが心配そうに台所から顔を出す。
「う? あ……ああ」
 親父は顔も上げずに上擦った声を上げた。さっきからもう一時間もこんな調子だ。
「か、かあさん。お茶」
 湯呑みを持ち上げた手が震えている。
 だめだこりゃ。そんなことでヤツを追い返せると思ってるのか? まったく情けない。
 親父には期待できそうにない。ここはやっぱりぼくがガツンとかまさなければ。
 そのとき、ピンポンと軽快なチャイムが家中に響いた。親父がびくりと体を震わせる。「熱ッ」淹れたてのお茶が親父の手に零れた。
 母さんはそれを見てやれやれと言うように肩を竦めて、はぁいと大きな声で応えながら玄関へと出て行ったのだった。

 ぼくはこっそりと廊下から台所へ侵入した。
 周囲に誰もいないことを確かめ、ポケットから白い顆粒の入った小さなビニール袋を取り出す。昨日のうちに薬箱から抜き出しておいた下剤である。親父が便秘症で病院から処方されているブツだ。
 コレに結構即効性があるのをぼくは知っていた。以前一度、風邪薬と間違えて飲んでしまったことがあるのだ。あの時はちょっとした地獄だった。ハラが痛ぇのなんの、きっちり一時間は便器とオトモダチだった記憶がある。これをこっそりお茶に入れれば、まんまとヤツはお陀仏だ。
 ぼくは、大事な話の最中にトイレに駆け込みそのまま便器に噛り付くことになるヤツの情けないツラを思い浮かべた(会ったことないけど)。おそらくそのまま今日の家族会議はお開きになるだろう。大事な時に腹を下すような情けない男なんかはきっと美咲にも嫌われるに違いない。
 うくくと含み笑いしながらぼくは注意深く薬包を開け、お客様用のコーヒーカップにさらさらと注いだ。その上にコーヒーメーカーからコーヒーを注ぐ。
「母さん、こちら、岡本さん」
 玄関先から会話が聞こえてきて、ぼくの心臓はどきんと跳ねた。
 美咲の声だ。美咲はヤツを迎えに駅まで行っていたのだ。
 あらあらいらっしゃい、いやどうもお邪魔しますとかいう声がだんだんとこちらへ近付いてくる。
 やがて、母さんがぼくのいる台所へと帰ってきた。岡本とかいう男と美咲は親父の待つ居間へ向かったらしい。母さんはコーヒーカップの乗ったお盆を持ったぼくを見つけて、あらという顔をする。
「お茶なら淹れておいたよ。はい」
 ぼくはそ知らぬ顔でお盆を母さんに渡した。
「いやに気が利くじゃないの。気持ち悪いわねぇ」
 母さんは少し首を捻った。ぼくは一瞬ヒヤリとしたが、それ以上疑われはしなかったようだ。
「ほら、大事な話だからアンタもいらっしゃい」
「……ああ」
 計画は順調だ。

 沈黙。粘ついた重苦しい空気が居間を満たしている。
 なんとなくうつむいたままの一同の中、美咲だけが背筋を伸ばして顔を上げていた。
 ぼくはちらりと岡本の顔を盗み見る。肩幅の広い長身に生真面目そうな眼鏡。歳は三十二歳だそうだ。オヤジじゃないか!ぼくは絶対に認めない。こんなオッサン、まったく美咲には釣り合わない。
 ぼくと五つ違いの美咲はこの春大学を卒業したばかりの二十三歳で、過酷な就職戦争を乗り切って大手広告代理店に就職してからまだ半年も経っていないのだ。大体にして岡本とはその会社で知り合ったそうだから、付き合いも未だ半年に満たないということだ。あまりに急じゃないか!このオヤジのどこにそんな魅力があるというのか。そりゃ、ちょっと背も高いしスタイルもいいし、スーツが似合う背中をしてるけどさ。ぼくだって大人になったら負けないはずだ。
 だから、何もこんなに急に結婚なんて。
 美咲がぼくの元からいなくなるなんて。
 ぼくは正座した膝の上に両手の拳を乗せ、ぎゅううっと握り締めた。
 婚約者どころか、美咲に恋人がいたのだってぼくは知らなかった。ぼくは俯いて唇を噛む。美咲を愛せるのはこのぼくしかいない筈なんだ。絶対に。
「美咲さんと」
 岡本が搾り出すようにそう言ったので、ぼくははっとした。
「美咲さんと結婚させてください、お父さん。お願いします」
 畳に頭を擦り付けんばかりの勢いで頭を下げた岡本に、親父がううとかぐうとか唸った。
「お願いします。しあわせになりますから」
 岡本のあとを追うように美咲が凛とした声で言う。
 ああ、こんな時だけれど、美しい声だ。
 そういえば結婚の決心を告げられてから、ぼくは美咲とろくに口をきいていないのだった。あれは何週間前だったろうか。
 お願いしますと口では言っているものの、美咲の口調に媚などはまったく感じられない。いつもそうだ。美咲は一度決心したことは絶対に曲げない。今回だって、誰にいくら反対されようと自分の意思を押し通してしまうに違いないのだ。
 凛としたきれいな声で、ぼくを拒絶したあの時の様に。
 あのときから、こうなるような予感はしていたのだ。美咲がいなくなってしまうような、不吉な予感。

「まぁお顔をお上げになって」
 母さんのその声で、ぼくは岡本がまだ頭を下げたままなのに気が付いた。
 岡本が恐縮しながらおずおずと頭を上げる。
「どうぞお茶でもお飲みになってくつろいでください、そう畏まらずに」
 母さんがぼくの淹れた(下剤入りの)コーヒーを岡本に促す。
 ナイスだ母さん! ぼくはこっそりほくそ笑んだ。そうだ、飲め飲め。それでこいつはお仕舞いだ。
「あ、じゃあ、お言葉に甘えて……」
 岡本の手がコーヒーカップへと伸びた。
 ぼくは息を呑んでその様子を見守る。ゆっくりとカップが岡本のくちびるに近づく。もう少し、あと一歩……そこで、ずっと唸っていた親父がようやく発言した。
「その、もうちょっと……待てんのかね。美咲はまだ就職したばかりだし、二人の付き合いも浅いんだろう」
 親父! 意見は最もだがタイミングが悪い。
 岡本がカップを置いた。それは、と口を開くのを美咲が制する。
「だって、早くしないとドレスが着れなくなっちゃうもの」
 美咲がさらりとそう言った。一同が美咲を振り返る。ドレス?
 美咲がにっこりと微笑んだ。
「私、妊娠してるんです。今三ヶ月」
 ―――な、
 何だって!?
「に、妊娠て、美咲、お前っ」
 上擦った親父の悲鳴。
「す、すすすみませんっ!!」
 再び頭を畳に擦り付ける岡本。
 顔を真っ赤にして泡でも吹きそうな親父の前で、当の美咲は涼やかに微笑んでいる。
「……な、」
 言葉にならないぼくの声。一瞬頭に血が上り、そしてそれの意味することを理解した途端さぁっと背骨が冷えた。
「おいっ、まじかよ美咲!」
 ぼくは美咲に詰め寄った。
「冗談で言いません、こんなこと」
 至極冷静にそう告げる美咲。
「美咲!」
「お姉ちゃんて呼びなさい」
「そ……そいつの子供か」
「当たり前でしょう」
 嘘だ。
 ぼくは愕然とした。美咲が、妊娠だって!? ……わなわなと手が震えるのを感じる。親父は馬鹿みたいにぱくぱくと口を開けて目を白黒させている。動揺して、岡本を殴ろうとかいうことすら思いつかないらしい。
「あらあらまぁ。おめでとう」
 のんびりした母さんの声にぼくは思わず振り返った。皆がはっと母さんに注目する。
「じゃあお式は早くしなくちゃねぇ。ね、お父さん」
 母さんは微笑んでばしんと親父の背中を叩いた。
「う、うむ、そ、それはそうだな」
 親父が釣られて頷いた。母さんに促されて、僅かにほっとした印象さえ受ける。
「ありがとう!」
 美咲がぱぁっと瞳を輝かせた。岡本が恐る恐る顔を上げる。
 それで、決まってしまった。
 ぼくは呆然とその場にへたりこんだ。
 場は一気に和んでしまった。
 母さんはビールを出してきて岡本に勧めていた。岡本がいやぁ酒は苦手で、などと言いながら頭を掻く。美咲が親父のグラスに酒を注ぐ。ぼくの悪巧みコーヒーはすっかり忘れ去られてテーブルの隅で冷め切っていた。
 なんだ。なんなんだ。
 これで決まりか? こんなにあっさりと。親父、ちょっと根性がなさすぎないか。せめて一発ヤツを殴るくらいしたらどうなんだ! 付き合って半年で娘を妊娠させる男なんてろくなもんじゃないだろう!?
 いや、それよりも、なによりも。……妊娠。美咲が。ぼくの頭は混乱していた。
 美咲の妊娠という事実はあまりに説得力がありすぎて、ずっと寝ずに考えた結婚を阻止する方法は全て消し飛んでしまった。本当にヤツの子供なのか?そんなこと確認する術もない。いや、万が一ヤツの子供じゃなくたって、事態は何も変わらない。
 美咲。美咲美咲。
 嘘だろう?
 ぼくはじっと美咲を見詰める。ぼくは今まで、いくら口で拒絶しても美咲は本当はぼくのことを愛しているのだと思い込んでいた。いや、今だってそう信じている。
 それでいいのかよ。本当にそいつと結婚するのかよ。今まで姉弟だから躊躇していただけで、本当の本当はぼくが好きなんじゃないのか。今この場で問い詰めたいができるわけがない。
 畜生!
 ぎゅっと唇を噛んだそのとき、岡本がすっと冷えたコーヒーカップに手を伸ばした。ぼくははっとする。親父が無理にビールを飲ませたので岡本は真っ赤な顔をしていた。水分が欲しくなったのだろう。
 よし。飲め。ぼくは祈った。ちょっと最初の目的とは違うが、この際もうヤツが苦しむならなんでもいい。
 岡本は一気にコーヒーを飲み干した。
「……は。はは」
 思わず笑いが漏れた。
 飲んだ。飲みやがった。ざまぁみろ。せいぜい苦しめよ。
 ぼくはほくそ笑みながら岡本の様子を窺った。

 そして、五分経過。
 十分経過。ニ十分経過……。あ、あれ?
 岡本の様子は一向に変わらない。親父に大分飲まされて顔が青白くなってはいるけど。
 おかしい。もうとっくに効いていい頃なんだけどなぁ。コイツ、見かけに拠らず結構頑丈なのかもしれない。
 ぼくが首を捻っていると、
「かおる、あとはおとなの話だ。お前は部屋で宿題でもしてろ」
 親父が無情にもそう言い放った。ぼくはむっとして親父を睨む……ダメだ。もうすっかりできあがってやがる。親父は禿げた頭の上まで真っ赤にして酔っていた。酔った親父に意見するのはワニに意見するのと同じくらい無駄で危険なことである。
 相変わらず岡本の様子に変化は見られない。チッと舌打ちしたい気持ちを抑え、ぼくは無言で立ち上がった。
「あ、か、かおる君」
 岡本が慌てて立ち上がり、ぼくに歩み寄ってきた。横目で睨んだが、ヤツの背が高いので見上げるような形になってしまう。まったく、何から何まで腹が立つ男だ。
「君のことは美咲からいつも聞いてるよ。美咲はいつも君を褒めるんだ。あの……今度、ゆっくり話を聞かせてくれ」
「俺は認めてないから」
 冷たくそう言って背中を向けた。あ、と追いすがる岡本の声は無視する。
 ぼくはくちびるを噛み締めて、自室へと向かう階段を駆け上がった。
「畜生!」
 腹が立つ。腹が立つ腹が立つ腹が立つ。
 ぼくはガンガンとタンスを蹴った。なんてことだ、どうなってんだ、どういうことだよ! 美咲の結婚はあっさりと家族に受け入れられてしまった。
「ちきしょう!」
 もう一度叫んだ。
「うるさいわね」
 はっとして振り返ると、開かれたドアの横に美咲が立っていた。

「……勝手に入ってくんな」
 ぼくは立ち上がり、そう言って美咲の体を部屋の外に押した。随分久し振りに触れた美咲のからだは相変わらず柔らかくて優しく柔らかくて、ぼくをふいに切ない気持ちが襲う。
 ぼくはぎゅっと唇を噛んだ。
「出てけよ」
「あんた、岡本さんのカップに悪戯したでしょ」
 ぎくりと肩を竦める。ぼくの力が緩んだ隙に美咲はさっとぼくの部屋へ入り込んでしまった。止める間もなくベッドの端に腰掛ける。
 薬は効いていないのに、どうしてバレたのだろうか。
「うふふ、図星?」
 美咲はしてやったりと微笑む。ああ、そんな笑顔でも。なんて綺麗なんだろう、ぼくの美咲は。
「残念ながらあんたが岡本さんのカップに入れたのはただの風邪薬、下剤はこっち」
 美咲はロングスカートのポケットから白い顆粒の入った小さな薬包の束を取り出した。
「あ!」
 なんてことだ。効かないわけだ!
「かおるのすることなんてお見通しよ。あんた何度もコレ使って悪戯したじゃないの。成長がないわね」
「……」
 浅はかだった。美咲に見破られていたとは。
 ぼくはよく確かめなかったことを後悔した。といっても二つの薬は見た目には大した差はないのだ。それをまとめて入れている袋にそう記してあるからかろうじて区別がつくのである。医者に処方された薬は余っても取っておいてはいけないそうだが、納得だ。
「まったく、ロクなことしないんだから。それにさっきの態度は何? あとで岡本さんに謝りなさいね」
 やれやれ、という様子で美咲が言う。
「冗談じゃない!」
 ぼくは美咲を睨み付けた。どうしてそんな無神経で残酷なことが言えるんだ? ぼくはまだ美咲を諦めたわけじゃないのだ。大体、あいつに頭を下げるだなんて死んでもごめんだ。
「かおる」
 美咲が戒める響きでぼくを呼ぶ。
「我儘もいい加減にしなさいよ」
 我儘?
 ぼくはぴくりと片眉を上げた。
「我儘? 何がだよ」
 ぼくは美咲に歩み寄った。
 美咲が大人ぶっている。もうぼくとは違うのだと態度で拒絶してる。……気に食わない。
「好きな女が自分を捨てて他の男と結婚するのを納得できないのが我儘か?」
 ぼくは美咲の前まで歩み寄って彼女を見下ろした。美咲はぼくから目を逸らさずに応える。
「……まだそんな馬鹿なこと言ってるの」
「馬鹿なことかよ」
 冷静な声を出したかったが、駄目だった。
「ぼくが美咲を好きなのが馬鹿なことだって言うのかよ」
「思い込みよ。勘違い」
「違う」
 そんなわけはない。美咲だって知ってるはずだ。
「美咲は誤魔化してる。ぼくが好きだろう?」
「好きよ。……弟だもの」
 違う。そんなことを聞いてるんじゃない。
 美咲はぼくを見上げている。長い睫、陶器のようになめらかな肌。くちびる。腹が立つ。どんなにぼくを拒絶していても、美咲は綺麗だ。
 階下では、親父たちの騒ぐ声が聞こえている。
 ぼくが美咲を押し倒しても、美咲はぼくから目を逸らそうとしなかった。
「あの男のどこがいいんだ」
「かおるには解らないの?」
 解らない。
 腕を曲げて美咲の頭の横に肘を着き、ぼくは美咲に圧し掛かった。柔らかい、美咲の胸がぼくの胸の下で潰れる。
 ぼくは目を開けたまま美咲に口付けた。それでも美咲はじっとぼくの目を見ている。
「抵抗しないのか」
 ふ、と美咲が微笑む。ぼくは下唇を噛んでぎゅっと目を閉じた。
「……馬鹿にすんなよ」
 そう吐き捨てて美咲から離れ、ぼくは部屋を飛び出した。

 ぼくは美咲を愛してる。
 それは、決して思春期の錯覚や勘違いなんかではない。ぼくはずっと前から、それこそ物心ついた時から、美咲を愛してきた。姉としてではなく恋愛対象として。
 認められることではない。それくらいはぼくにだって分かっている。でも、美咲にだけは解って貰えているのだと思っていた。
 家を飛び出したぼくは当てもなくふらふらと街を彷徨った。ゲーセンに入り、ポケットにあるだけの小銭でゲームをしたらすぐに残り少なくなった。ぼくはゲーセンを出てコンビニでビールを買い、手近な公園を見つけてベンチに腰掛けた。
 缶ビールを開ける。プシュ、と小気味良い音が誰もいない公園に響いた。
 ぼくはそれに口をつけて一気に飲む。……不味い。苦い。大人は一体どうしてコレが美味いなんて思えるのだろうか。
 でも、ぼくだって子供じゃない。ビールくらい飲める。ぎゅっと目を瞑って、流し込むように残りを飲み干した。
 しばらくすると顔がかぁっと熱を持ってきた。なんだか頭の芯がぼんやりする。ぼくはベンチにごろりと寝転んで目を閉じた。このまま朝までここにいよう。一晩くらい野宿したって平気だ。明日の昼間は平日で誰もウチにはいないから、こっそり荷物を取ってきてそのまま家を出よう。なんだか、どんなことでもできそうな気がしてきた。
 そうだ、家を出て……高校なんかももう辞めて、どこか知らない場所で、美咲のいない場所で一人で暮らすのだ。他の男に嫁ぐ美咲を間近で見て正気でいられる自信などぼくにはない。美咲の思い出が詰まった家では暮らせない。
「……くそお」
 美咲の結婚を無意識に認めてしまっている自分に気が付いて、ぼくは遣り切れなくなった。
 認めない。認めたくない。ぼくが美咲を守る。他の男になんか渡さない。本当にそれができるつもりか、ぼくは? いや、できる。美咲が結婚をやめてくれたら、ぼくが美咲の子の父親になってやる。自分の子供でなくたって良いのだ、美咲の子供ならぼくには愛する自信がある。ああでも、そんなことちっとも現実的じゃない。
 思考がぐるぐると回る。美咲、美咲、美咲。美咲の指や唇や頬が脳裏に立ち昇っては消える。ああ、これが酔いかとぼくはぼんやり思う。目の前で、美咲の全てが渦になって氾濫する。
「……くん、かおるくん」
 低い声に呼び戻されてぼくは目を開いた。
「かおるくん、こんな所で寝たら風邪を引くよ。家に帰ろう」
 ぼくははっとして起き上がった。
 ベンチの横に、心配そうにぼくを覗き込む岡本の姿があった。

 岡本は自動販売機で缶コーヒーを二つ買ってきて、はい、とぼくに差し出す。受け取るのはシャクだったが喉が渇いていたので貰っておいた。
 頭が痛い。
 しばらく眠っていたせいで酔いは覚めたようだが、その代わりに凄く頭が痛い。
「……」
 ぼくたちは並んでベンチに腰掛けて無言でコーヒーを飲んだ。気まずい沈黙。先に口を開いたのは岡本だった。
「君は本当に美咲によく似てるね。女子に人気がありそうだ」
 何を言ってんだ。おだてても無駄だぞ。ぼくはふんと鼻を鳴らす。
「美咲はいつも君を自慢しているよ。最高の弟だって。彼女があんまり誇らしそうで、ぼくはちょっとやきもちを妬く」
 岡本はそう言うと、照れたように頭を掻きながらあははと笑った。
「突然こんなおじさんがお姉ちゃんと結婚するなんて言い出して驚いたろう? 本当にごめん、でも」
「……何が言いたいんだよ」
 ぼくがぶっきらぼうにそう言うと、岡本は突然立ち上がりぼくの目の前でガバっと土下座をした。
「頼む、お姉さんをぼくに譲ってくれ、かおるくん。これからは君の代わりにぼくが全力で守るから。絶対に幸せにする。このとおりだ!」
 ぼくは目の前で頭を砂利に擦り付ける三十男を見下ろして呆気に取られた。……馬鹿かこいつ?
「美咲は、家族の誰よりも君に認めてもらえなければ結婚はできないと言っている」
「……」
 ぼくはわざと黙っていたが、岡本はいつまでも顔を上げなかった。高そうなスーツの膝下が砂に塗れている。
 馬鹿だ。
「……あのさ、オカモトさん」
 ん、と岡本は顔を上げる。
「例えばさ。もしも、もしも美咲の子供があんたの子じゃなかったらどうする? 解んないじゃん、男にはそんなの。それでも美咲と結婚できる? 美咲を幸せにできる?」
 岡本はちょっと考えるような仕草をしてから、微笑んで答えた。
「別に関係ないさ、そんなこと。美咲がその子の父親に僕を選んでくれたなら、それでいい」
「……ふぅん、馬鹿だね」
「そうかもしれない」
 でも、ぼくも同じ考えだ。
 美咲がぼくを選んでくれたなら、たとえこいつの子供だとしたってぼくは美咲と一緒に幸せにするだろう。
 そして。美咲は、こいつを選んだのだ。
 唇を噛む。言わなくてはいけない。ぼくは勢いをつけてベンチから立ち上がった。
「いいんじゃない。合格だよ」
 え、と岡本が聞き返す。ぼくはもう答えず、すたすたと歩き出した。岡本があわてて立ち上がり後を追ってくる。
 彼なら美咲を幸せにするのだろう、きっと。美咲は彼を選んだのだ。美咲のために床に這い蹲る、この男だから。
「泣かせたら殺すからな」
 声が震えないように。ぼくは掌を握り締めた。

 それから一ヶ月。
 ぼくはダンボールだらけになった美咲の部屋で荷造りを手伝っていた。美咲は挙式を待たずして岡本との新居へ引っ越すことになっていた。
「やだ、割れ物は新聞紙に包んでって言ってるでしょ」
 鏡をそのままダンボールへ詰めようとしたぼくの手を美咲が掴んで止めた。柔らかいその感触に、ぼくは少し胸が痛くなる。
「細かいな、もう」
 拗ねたふりをして振り解いた。
「常識でしょ。まったく……まぁいいわ、ちょっと休もうか」
 妊婦に屈んでの仕事はキツいらしい。美咲の腹は最近心なしか大きくなった気がする。
 ぼくは頷いて立ち上がり、シーツを外したベッドでごろんと体を伸ばした。
 その横に美咲が座る。目に映る、殺風景なフロア。美咲がぼくの前から消えていく、その証。
 ―――会えなくなるわけじゃないさ。
「あー、市役所にも行かなきゃ。結婚て結構面倒くさいなぁ」
「やめちゃえば」
 美咲がぼくを横目で睨む。ぼくはくすりと笑った。
「冗談だよ」
 大丈夫。もう笑える。美咲がこつんとぼくの額を突く。
「……ねえかおる、触ってみて」
 寝転んだままのぼくの手を取って、美咲は自分の腹に当てた。
「わかる? この中に、新しい命があるのよ。不思議ね」
「不思議だな」
 腹を撫でるぼくの手の甲を美咲が優しく撫でる。ちくりと、ぼくの胸を針の傷みが刺す。言ってはいけない、と思いながらぼくの口は勝手に言葉を紡いでいた。
「ぼくの子供なんだろう? 美咲」
 美咲は、一瞬驚いたような顔をして。それから、ふと微笑んだ。まるで花が綻ぶように、鮮やかに。
「違うわよ。馬鹿ね」
 馬鹿は美咲だ。そして、ぼくはさらに大馬鹿だ。
 溢れてきた涙を空いている手の甲で乱暴に拭った。ぼくは馬鹿だ。大馬鹿者だ。どうしようもなくガキだ。だから、愛する女を失う。
 今なら解る。彼女は、ぼくのそれとは比べ物にならない覚悟を持ってぼくの隣にいたのだ。愛する相手と抱き合うことにただ舞い上がっていたぼくとは違う。彼女を失って初めてそのことに気づくなんて。そして気付いた今でも、ぼくは全てを捨てて美咲を連れて逃げることもできない。責任を感じることさえ美咲に否定された。
 美咲はぼくと愛し合った証を守って、ぼくを捨てる。

「ねぇ、かおる」
 泣きじゃくるぼくの髪をゆっくりと弄んで、美咲が言う。
「私たちは何があっても姉弟なのよ、素敵ね。恋人や夫婦には終わりが来るかもしれないけれど、私たちを繋ぐ絆は決して揺らがない。たとえどんなに離れても。素敵だと思わない?」
 そしてその絆こそが、ぼくたちを決して結ばない。

 美咲の優しいてのひらを感じながら、ぼくはいつまでもいつまでも、立ち上がることができなかった。

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