憑く香り
*
たたた、たたたん。
もう何百回目になるだろう、鳴り続ける着信音を聞きながら、俺は苛々と頭を掻きむしった。
――何で出ないんだよ、クソッ!
舌打ちして電話を切り、床へ投げつけたい衝動を必死に抑える。
同じテーブルに着いたパートのおばちゃんが眉をひそめてこちらを見ているのに気づいて俺は無理やり愛想笑いをした。また、会社を辞める羽目になったら叶わない。
――畜生。美枝子のヤツ。
妻が息子を連れて家を出てから、もう三か月にはなるだろうか。
相変わらず話し合いにも応じない美枝子の態度に、俺の我慢も限界を迎えようとしている。まだ十歳の子供を連れていったいどこにいるのか、実家のない彼女が身を寄せる場所など多くはないはずだが一向に足取りが掴めない。
――最近は、こういう事例を「連れ去り別居」というらしい。
たとえ母親とはいえ、父親の合意なく一方的に子供を連れ去ることには違法の判決が出る場合もあるそうだ。もちろん状況にもよるようだが、俺はこれを妻による息子の誘拐だと確信している。
『いい加減にしろ。こっちは法的手段に出てもいいんだぞ』
既読の付かないラインにメッセージを送り、スマホをテーブルに投げ出してから俺はパイプ椅子の背もたれに背中を預けて深くため息を吐いた。
「落合さん、ご機嫌斜めですね」
背後から掛けられた声に慌てて身を起こし、振り返ると、そこには笑顔を浮かべた園田彩未がいた。
「また寝不足ですか?」
「いや、まあそんなところで……」
うどんの乗った盆をテーブルに置き、俺の隣に腰掛ける彩未はふとこちらの手元に握られた缶コーヒーへ視線を寄越して心配そうな声を出す。
「今日もコーヒーだけですか?」
「ああ……いや」
もごもごと口の中で言葉を選ぶ。この食堂の飯は特に旨くはないが、値段を考えれば不味いというほどでもない。カレーとうどんが二百五十円、本日の定食が三百五十円。今日は豚の生姜焼き定食だ。脂とニンニクの焼ける香ばしい匂いは普段なら食欲をそそるだろうが、今の俺には吐き気を催すくどさだった。
「……腹が減ってなくて」
当たり障りのない応えを呟くと、彩未は苦笑した。
「ちゃんと食べなきゃダメですよ。家では食べてるんですか?」
「うん、まあ。腹が空けばそれなりに」
最近まともに飯を食ったのはいつだか思い出せない。適当に返事をしたのがバレたのか、彩未はさらに困ったような顔をして俺の前にプロテインバーの包みを差し出した。
「せめてこれ、食べてください。あ、急がないと!」
時計を見ると、休憩時間はあと十五分ほどで終了だった。十分前には食事を終えて、五分前には持ち場の製造ラインへ戻らなくてはいけない。
派遣社員としてこの食品製造工場へ勤めだしたのは先月のことだ。
妻と子供が出て行ったあと、無断欠勤を繰り返して前の職場に居ずらくなった。事情を鑑みた上司には止められたが、それまでのように仕事に情熱が持てなくなったこと、また、周囲の憐みの視線に耐えられず自ら退社の道を選んだのだ。
ヒソヒソと噂話をする近所の目が気になって引っ越しもした。今の部屋は三人で住むには手狭だが、あいつらが帰ってきたらまた新しい家を探せばいい。
今の職場では責任も自主性も求められない。最寄りの駅からは専用バスが出ていて、痴漢に間違われはしまいかと気を張る電車通勤もないし、毎晩深夜まで掛かるような残業もない。なにより、俺の以前の生活を知る人間は誰もいない。
誰とも親しく付き合うつもりはなかったが、この彩未という娘はなぜか歳の離れたこんなオヤジにやたらと話し掛けてくる。ちょうど同時期に入社したので、他に親しい人間がいないせいもあるだろうが。
年齢は二十代後半というところか。さらりと艶のあるセミロングの髪をひとつに束ねて、化粧気はないがなかなかに愛らしい顔をしている。
――こんな女の子と話してるのを見たら、また美枝子がゴチャゴチャ言うだろうな。
まったく、あの女は嫉妬深くて妄想が激しいのだ。
今だって、俺が浮気をしているとか言い張って出て行ったきり、連絡も寄越さない。確かに俺だって若い頃はそれなりに女遊びもした。でもそれは美枝子が妊娠中の話だし、妻がセックスをさせないなら外で性欲を解消するのは当然のことではないか。十年も前のことをいつまでもブツブツと文句をいう執念深さには嫌気がさす。
――でも、それと、別居を認めるかどうかは話が別だ。
大体、あいつが一人で保を育てられるわけがない。俺は寛大な男だから、今帰ってくるならば美枝子の執念深さにも目を瞑ってやる。俺にだって、悪いところがないわけではないのだし。
俺はプロテインバーをポケットに仕舞い込み、彩未に「ありがとう」と声を掛けて席を立った。
「今日もこのあとパチンコですか?」
作業服から私服へと着替えていると、斜め向かいのロッカーの佐竹と目が合った。もう三十は過ぎているであろうに、眉を剃ってキノコのような頭を金髪に染めた佐竹はクイクイっと手を回してニヤニヤと笑う。
「そうっすね、たぶん」
無視をするわけにもいかない。俺の返事に、佐竹が大げさに腕を広げた。
「毎日毎日、ウチの安月給でよくもちますねー。俺なんかカツカツですよ」
――家に帰りたくないのだ。
俺は曖昧に笑う。
「前は都内に住んでたんですよね? どこで働いてたんすか?」
どこでそんな情報を手に入れたのか――田舎の人間は本当に噂話が好きだ。
「普通の会社員ですよ」
「やっぱ、大手って退職金とかいっぱい出るんすか」
「はは。そんなんじゃないです。じゃあ、お先に」
手早く着替えを終えた俺は、今だ喋り足りない様子の佐竹を後目にさっさと更衣室を出た。高校を卒業して工務店を転々としてきた佐竹は、どうしても職人の世界に馴染めず二年前にこの工場へ入ってきたらしい。かくいう自分もすっかり彼の経歴を知ってしまっている。
――女房と子供に逃げられた、だなんて噂が広まったら溜まったもんじゃないぞ。
会社で電話をするのも気を付けなくてはいけないかもしれない。ラインの画面だって、誰かが覗き見していないとも限らない。
会社を出ると閉店間際までいつものパチンコ屋に居座り、余り玉が飲み込まれるのを見届けてから俺は帰路に付いた。
途中、コンビニで軽いつまみとアルコール9%のチューハイを買い込む。
憂鬱な気分でドアを開けると、ぷん、と花のような甘い香りが鼻先をかすめた。
――またか。
俺は立ち止まりそうになる足を無理やり玄関へと進めて、ドアを閉めた。匂いはすぐに慣れる。大丈夫だ。
テーブルの上にコンビニ袋を置こうとして、そこに長い髪の毛が落ちているのに気が付いた。舌打ちをして摘まみ上げ、ごみ箱に放り込む。
まるでついさっきまで誰かがいたような生々しい気配には気付かない振りをした。
習慣でスマホを充電し、ダラダラとテレビを流しながら無理やり酔っぱらって、万年床に潜り込む。枕から甘い匂いがする――気のせいだ、気のせい。口の中で呟きながら目を閉じたが、眠れない。美枝子に電話を掛ける。着信音が聞こえる。ラインは既読にすらならない。どこにいるんだ、美枝子、保――会いたい。
ひとりはもうたくさんだ。
今日も美枝子は電話に出ない。
――いい加減にしろ。
人目のない倉庫の裏でスマホを握りしめ、俺は唇を噛んだ。行き場のない憤りを抑えようと、何度か深呼吸をする。
昔から、カッとすると訳が分からなくなることがあった。
頭の中が真っ白になり、気が付いたら手が出ている。あの日も、ちょっと言い争いになってうっかり彼女の顔を小突いてしまった。でも、それだけだ。軽くぺちんと横面に手のひらが当たった、そんなものだった。
それをおおごとにして出ていくなんて、あいつの方がよほどヒステリーが激しい。
いや――確かに、今までにも何度かそういうことがあったかもしれない。
でも、美枝子はいつも最後には許してくれた。それは俺たちが愛し合っているからだ。息子の保と三人、誰が見ても仲の良い家族だったはずだ。時折衝突することがあったとしても、すぐに和解できる。家族というのはそういうものだし、気が短い俺と、嫉妬深い女房。破れ鍋に綴じ蓋というやつではないか。喧嘩というのは常に両成敗で、俺だけが悪いなんてことはないはずだ。
――やっぱり、DVシェルターってやつだろうか。
俺は最近、ネットで辿り着いた情報を思い返していた。連れ去り別居を助長するシェルターというものがあるらしい。一方的な女の意見だけを鵜呑みにして誘拐を手助けするなんて、とんでもないことがまかり通っている恐ろしい世の中だと思う。
「落合さん、こんなところにいたんですね」
都内のDVシェルターなるものの連絡先を調べているところへ、彩未が声を掛けてきた。
「食堂にいないから探しちゃいました。お昼ご一緒しませんか」
「あー、いや……」
「今日、ちょっと多くお弁当作っちゃったんです。少し食べるの手伝ってください」
「……」
倉庫の壁に背中を向けるかたちで床にタオルハンカチを敷いてさっさと座り込んだ彩未が、弁当を広げる。俺は仕方なくその隣に腰を下ろした。
彼女の手にはどう見ても女ひとりで食べるとは思えない、タッパーふたつぶんの弁当があった。割り箸も二膳――俺のために作ってきたのだろうか。
タッパーのひとつにはおにぎり、もうひとつにはおかずが詰められている。唐揚げ、卵焼き、ウインナー……確かに美味そうではあるが、こんなものを食堂で一緒に食っていたらどんな噂を立てられるか分からない。
ありがたくはあるが、迷惑だなという気持ちの方が大きかった。
「はい、召し上がれ」
彩未がタッパーの蓋に唐揚げとおにぎりを載せて寄越した。
目の前でニコニコと笑う彼女へそれを突き返すほどの勇気もなく、俺はおにぎりを頬張った。美味い――久々の手料理に、舌から体中の細胞へと喜びが広がるような気がする。
「美味い」
思わず口に出すと、彩未の表情がぱぁっと輝くのが分かった。まずい、と咄嗟に思う。彼女が自分になんらかの好意を持ってくれているのは分かるが、釘を刺して置かなくてはならない。
「その……今日は良いけど、こういうことはあんまり。誰が何を言うか分からないし……」
「落合さんがちゃんとお昼ご飯を食べてれば私だってこんなことしないですよ」
悪びれもせず、怯まない。最近の若い娘というのはこういうものなのだろうか。
「落合さん。何か、困っていることがあるんじゃないんですか?」
彩未は俺の顔をじっと覗き込んでそう言った。
「困ってること……」
そりゃ、俺の日常は困りごとだらけだ。応えに詰まっていると、彼女は畳みかけるように続けた。
「急にこんなこと言って、すみません。私――その、『みえちゃう』んです」
「みえちゃう?」
一体何が――そう思いかけて、ぞくり、と背中が冷えた。
ほとんど本能的なその感覚に、自分でも驚く。見える――視える、か。
「霊感……って言うんでしょうか。落合さん、最近変なことはありませんか」
「……」
普段だったら笑い飛ばすような話題だが、あくまでも真剣な表情の彩未をバカにするのは躊躇われた。何より、彼女の言っていることに自分は心当たりがある。
「変なこと……」
俺の気持ちが定まるのを待っているかのように彩未は無言だった。
――家に帰ると匂う花の香り。
――覚えのない長い髪の毛。
――部屋に漂う、濃厚な、自分以外の誰かの気配。
今の部屋に引っ越して来てから起こっている一連の出来事を、はっきりと認識することは無意識に避けていた。
本当は、ずっと、何かがおかしいと思っていたのに。
「……いや。大丈夫だよ」
しかし、俺の口から出たのはそんな言葉だった。
バカバカしい。幽霊やらオバケやら、この世の中にいるわけがないじゃあないか。そんなものを信じているなんて彼女には随分と子供っぽい部分があるようだ。
「ただ、ちょっと寝付けなくて」
俺がそう言うと、彩未はぱっと表情を変えた。俺が彼女の言うことを信じていないと察したのだろう、にこりと大人らしい笑みを浮かべる。
「そうですか。そんな時は睡眠導入剤を使うのも良いと思いますよ」
「睡眠導入剤?」
「はい。私の母もよく使ってました。睡眠薬と違って、内科なんかでも眠れないと相談すれば処方して貰えるみたいです。最近は薬局でも売ってますしね」
「そうなのか」
そんなものがあるとは知らなかった。導入剤という響きは安心できるし、内科で貰えるならば通院にも抵抗がない。
「ありがとう――」
そう応えたとき、ぴこっ、とポケットの中のスマホが鳴った。
「!」
ラインの着信音だ。今、俺にメッセージを送ってくる人間は多くない。
――まさか。
「ちょっと、ごめん」
慌ててラインを確認する。思った通り――それは美枝子からのメッセージだった。
『あんな女に騙されないで。あなたって本当バカ』
『もう私たちのことは忘れてください』
文字が意味を成して頭の中に入ってきた途端、カッと頭に血が上るのが分かった。
――勝手なことを!
「ちょっと、ごめん」
俺は彩未にタッパーの蓋を押し付け、スマホを手に立ち上がった。彼女に背を向けて何度も、何度も美枝子に電話を掛ける――出ない。
――バカなのはお前だ。俺は浮気なんかしてない。
ラインのメッセージを打った。既読が付かない。
――くそ、くそっ!
どうして信じてくれないんだ。
あの夜もそうだった――。
「どうして嘘を吐くのよ。そういうところがイヤなの!」
激昂した美枝子がテーブルの上の皿を薙ぎ払った。ガシャンと大きな音を立てて皿が割れ、冷えた料理が床へ飛び散る。
残業のあと、同僚と飲んで帰った夜のことだった。美枝子は帰宅した俺に浮気をしているのだろうと詰め寄ってきた。
「大きな声を出すなよ、保が起きるだろ!」
「大きな声を出してるのはあなたじゃない! この嘘吐き!」
更年期というやつだろうか。このところ、美枝子は目に見えて機嫌の悪い日が多かった。俺に対しても疑心暗鬼を募らせて、ありもしない浮気を責め立てられるのだから堪ったものではない。
「嘘なんか吐いてないよ!」
「前もそう言って浮気していたじゃないの。信じられないわ!」
「十年も前の話を持ち出すなよ」
「一度なくした信用は元には戻らないのよ。浮気してないって証拠はあるの?」
もう、こうなると水掛け論だ。悪魔の証明というやつである。こちらは浮気をしていない証明をすることなどできないし、向こうには想像力という大きな証拠があるのである。たとえ今夜一緒にいた同僚に証言して貰ったとしても、彼女の気持ちは収まらないだろう。
何を言ってもムダだ。無言になった俺に、彼女はますます怒りを募らせたようだった。
「そうやって都合が悪くなるとすぐだんまり。私のことバカにしてるんでしょ?」
「どうしてそんな話になるんだ」
「あんたとなんか結婚しなきゃ良かった、私の人生台無しよ!」
苛立ちが最高潮に達して、気が付いたら手が出ていた。パンッと横面を叩かれた美枝子が頬を押さえ、憎しみの籠った瞳で俺を睨み付ける。
何を言うのもバカらしくなって、俺はそのまま寝室に入ってベッドへ潜り込んだ。美枝子はしばらくなにやらごそごそしていたかと思うと、やがて、寝ぼけた保を連れて家を出て行ったようだった。お母さん、遊園地いくの――そうよ、いいから来て。小声のやり取りを鼻で笑う。家出のパフォーマンスか、くだらない。どうせ朝になれば頭を冷やして帰ってくるだろう。そう思った。
しかし、それからふたりが戻ることは二度となかった――。
ドン!
大きな音と手の痛みで我に返った。
無意識に、俺は握りしめたこぶしを床に叩きつけていた。
「落合さん、大丈夫ですか?」
「あ、ああ……」
「本当に具合が悪そう。無理しない方がいいですよ」
心配そうな彩未がこちらを覗き込んでいる。その瞳が全てを見透かしているように感じるのは俺の後ろめたさが見せる幻覚に違いない。
「そうだな、今日は早退して病院に行ってみるよ」
おにぎりをひとつ、急いで頬張って唐揚げの乗った蓋を返すと、何か言いたそうな彼女の顔を見ないようにして俺は立ち上がった。彩未の優しさを受け入れてしまったら、自分の中で張り詰めた何かがひと息に崩れ出してしまいそうで怖い。
ゾルピデムと書かれたアルミシートから丸い薬を一錠押し出して、チューハイで喉奥へと流し込んだ。
万年床へ潜り込んで目を閉じる。
彩未の言うとおり、薬は内科で簡単に処方して貰うことができた。寝る前に一錠。酒と飲み合わせていいものか聞くのを忘れたが、大した問題ではないだろう。
テレビを消した途端にいつものように寂しさと苛立ちが沸き上がってきたが、しばらくすると、すぅっと凪ぐように思考が薄らいだ。頭の芯が痺れたようでなんだか気持ちが良い、と思ううちに、俺はいつの間にか眠りに落ちていた。
――美枝子。
ぼんやりと夢うつつに彼女の柔らかな身体を思い出す。
もう、どれだけ触れていなかったか。傍にいるときはこんな女飽き飽きだと思っていたし、風俗でもなんでも、新しい女を抱くことで性欲を解消するのが当たり前だと信じていた。
それなのに、触れられなくなった今はこんなにも美枝子の肉体が恋しい。
もっと可愛がってやればよかった。優しくして、愚痴でもなんでも気が済むまで聞いてやればよかった。そういえば、あいつの機嫌が明らかに悪くなったのは、久々に一緒に寝たいという彼女の言葉を鼻で笑って無視した夜あたりからだったような気がする。
柔らかな身体が布団の中に忍び込んでくる。俺はその背中を抱きしめようとするが腕に力が入らない――美枝子。ごめんな。呟くと、ふふ、と笑う気配がして俺は安堵する。良かった、やっぱり許してくれた。
下半身になよやかな指先が触れ、服の上から扱かれる。沸き上がってきた快感に身を任せると、そこは見る間に硬く天を向いて勃ち上がった。
愛おしそうに撫でまわす指先。胸板へ押し付けられる豊かな乳房。美枝子、愛してる――そう思った瞬間、ふわりと花の香が香った。
――美枝子じゃない。
すっかり嗅ぎ慣れたその匂いに、俺の意識は眠りから引き戻された。
「!」
夢ではなかった。布団の中に誰かがいる。そして、俺の股間を撫でまわしている。
女だった。抱きつく身体を押し退けようとするが、腕に力が入らない。俺の上に覆いかぶさった女の髪の毛がさらりと顔を撫で、いつもの花の匂いが鼻奥へとまとわりつく。頭が重い。うまく目が開かない。それなのに抗いがたい刺激に、ペニスだけは硬く充血している。
いつの間にか露出させられたそこに、柔らかなものが押し当てられた。濡れた粘膜が肉竿をずぶずぶと飲み込んでいく感覚と共に、「ああ」と感極まった女のため息が聞こえる。
――一体何が起きているんだ。
混乱はすぐ喜悦に飲み込まれた。俺の上で躍動する女の肉体はなまなましく汗ばみ、生気にみなぎっている。こちらの気力も精気も吸い尽くすような激しい交わりに強い絶頂感が膨れ上がり、やがて、俺は果てた。
「色情霊……」
スマホに表示された文字を見下ろして、俺は眉をしかめた。
「幽霊」「セックス」という単語で検索してみると、眉唾ものの体験談がいくつも出てきた。その中にあったのが「色情霊」という言葉である。
『性に未練を残したまま死んでしまった場合には、色情霊になって生きた人間を襲うことがあります。色情霊とのエッチは現実の数十倍の快感があるとも言われ、襲われた人間は精気を吸い取られて衰弱することも――』
稚拙な文章に信ぴょう性は一ミリも感じられない。だが、バカバカしいと思いつつ、自分に昨夜起きた出来事を思い返すと簡単に笑うこともできなかった。
女に犯され、気付いた時には朝だった。慌てて確認したが衣服に乱れはなく、ドアには鍵が掛かっていた――しかし、とても夢とは思えないリアルな感覚が残っている。
あれが幽霊でないとすれば、何者かが日常的に俺の部屋に侵入していることになる。念のため、今日からはチェーンも掛けて寝ることにするが――こんなくたびれた中年男にストーカーが付いていると考えるよりは、部屋に霊が出るというほうがまだ現実的な想像なのではないか。
「事故物件……霊道……」
部屋に出る幽霊の原因を突き止めようと検索を繰り返す。せっかくの週末に自分はいったい何をしているんだろうと虚しくなるが、どうせ、普段も朝から晩までパチンコ屋に籠るだけなので大した違いはないかもしれない。
俺はもともと、霊だのオバケだのが見える人間ではないしそんなことを信じてもいなかった。おかしなことが起こるようになったのはこの部屋に引っ越してきてからだ。
それがいつから始まったのか定かではない。もしかすると最初からだったのかもしれない。ふとした拍子に妙に甘い花の香りを感じるようになり、時折部屋の中に長い髪の毛が落ちていることに気付いた。
それだけ。たったそれだけのことだ。髪は以前の住人のものが残っていたのかもしれないし、匂いも気のせいで済むようなほんの小さなこと。だから、気にすまいとしてきた。しかし今は、霊というものの存在を信じてみようかという気持ちになっている。彩未の言葉も気に掛かるし――。
『私、視えちゃうんです』
彼女にはいったい何が見えたというのだろうか。
「事故物件か……」
ここは確かに安アパートではあるが、相場から外れるほどではない。ネットで事故物件サイトというものを見つけたので検索してみた。ふたつ先のブロックに首吊り自殺のあったマンションが、反対側に自然死のあった一軒家があるらしいが、こことは関係がなさそうだ。念のため不動産屋に電話を掛けて確認してみたが、「あははは、確かに古いアパートですけど、ご心配されるようなことは何もないですよ! 安心してください!」と担当者は豪快に笑った。嘘を吐いていないとは限らないが、声の調子からすると信用しても良さそうだ。
次に気になったのは「霊道」という言葉だった。よく分からないが、世の中には幽霊が通る道のようなものがあるそうで、それは神社や寺に通じていることが多いらしい。その「道」の上に家が建っていると、霊が入って来やすいのだそうだ。スマホに地図を表示させて一番近所の寺院とうちを繋いでみる――ん、と俺は声を上げた。
うちを挟んで、寺、そして先ほどの二件の事故物件がひとつの直線状に並んでいることに気付いたのだ。
「これ……か? うーん」
こんなことに何か意味があると考えるのはまったく愚かしい。分かってはいるが、何かひとつでも霊がいると納得できる確証が欲しかった。そうだ。霊はいる。だから――。
たたた、たたたん。
突然手にしたスマホが鳴りだして、俺はうわっと声を上げた。驚いてビクッと身を震わせたあとで、着信したのだと気付く。
一瞬、美枝子ではないかと思ったが、そこに表示されているのは母の名だった。
「はい?」
俺は不機嫌を隠さない声で電話に出た。
『もしもし? 何よあんた、引っ越してから連絡も寄越さないで。ラインだって返さないんだもの、心配するじゃないの、あんなことがあって』
キンキンと耳に響くような声に思わず電話を離した。そういえば、美枝子はうちの両親とも折り合いが悪かったっけ、と思い出す。身寄りのない彼女の実の親のように遠慮なく振る舞ってくれている――そう思っていたが、もしかすると美枝子にとっては迷惑だったのかもしれない。
「仕方ないだろ、バタバタしてたんだよ。で、何の用?」
『何の用って、もうすぐお盆でしょう。いつ帰ってくるの』
「お盆? あー、それどころじゃないし、俺は行かないよ」
『は? 来ないってあんた……美枝子さんと保が、』
「ちょっと、忙しいから。じゃあ」
ごちゃごちゃと文句を言われるのを遮って電話を切る。美枝子と保がいないぶん、俺に用事を押し付けようという腹だろう。思えば、今まで母の相手はほとんど美枝子に任せっきりにしてきたのだ。盆も暮れも、俺は実家でゴロゴロと寝るだけだったが、女房は何かと忙しなく立ち回っていた。俺は自分で思っているよりも彼女に負担を掛けていたのかもしれないと思い至った。
――もしもあいつが帰ってきたら、もう、実家と付き合わなくても良いと言ってやろう。
どうだ、俺は成長ができる男なのだ。今度は家族三人、きっとうまく暮らせるはずだ。ふたりを迎え入れる準備はできている。あとは美枝子の誤解を解くだけだ――。
「落合さん、今日はなんだか顔色がいいですね」
月曜の昼休憩。食堂で今日の定食のカレーライスを食いながらスマホを弄っていると、いつものように彩未が話し掛けてきた。
「ああ、園田さん。この間はありがとう、薬を飲んだらよく眠れるようになったよ」
当然のように隣に座ってくる彼女に微笑んだ。実際、昨夜は女の霊も現れずぐっすりと眠れたのである。
「そうですか、よかったです」
「あ、そうだ。それでちょっと相談があって」
「相談ですか?」
「ああ。君、霊感があるんだろ? もし良かったらうちを見てくれないかな」
彩未は少し驚いたような顔をして、それから少し周囲を伺う素振りをした。
「あ。あの。それはもちろん喜んで。でも、急にどうして?」
「それが、やっぱりうちには幽霊が出るらしいんだ」
同じテーブルについたパートのおばちゃんがぎょっと顔を上げるのが分かった。
「それで、調べてみたんだけど、どうやら霊道っていうの? それが関係してるんじゃないかと思うんだよ。君、そういうの分かる?」
「はい、その場に行けば分かると思いますけど……」
「そうか、よかった! そしたら今度、時間がある時にうちに来てよ。それで、ちゃんと、霊がいるって証明して欲しいんだ」
「証明、ですか……」
「ああ。いつにしようか? 楽しみだなあ」
休憩の十分前を告げるベルが鳴った。「また相談しよう」と、俺はカレー皿の乗った盆を手に立ち上がる。作業場に行く道すがら、佐竹が俺の肩を叩いた。
「ちょっと、落合さん。大胆っすねぇ、やるじゃないすか」
「大胆?」
「とぼけちゃってぇ。あんな大勢の前で女を家に誘うなんて、見直したっす。誘い文句はどうかと思いますけど」
「はは。そういうことか」
ニヤニヤと笑う佐竹は「どうなったかまた聞かせてくださいよ!」と言って製造ラインへ向かう。佐竹だけではなく、話したこともないような人間までがこちらへチラチラと視線を寄越してくるのに気づいたが、どうでもよかった。
終業後、俺はパチンコにも寄らず真っ直ぐに家へと帰った。美枝子へは相変わらず繰り返しラインを入れているが、なかなか既読にならない。でも俺には分かっている。彼女はちゃんとメッセージを確認しているはずだ。
『もうお袋には会わなくていいよ。親子三人だけで静かに暮らそう』
『今なら俺はお前たちに会える。今度こそ幸せにするから、信じてくれ』
『なんでもいいから返信してくれ。頼むから』
『心からお前と保を愛している。他には何もいらない』
辛抱強くメッセージを送り続ける。夜になっても部屋にこもり、スマホを見詰めていると、やがてぴこっと通知音が鳴った。
――来た!
『あなたの誕生日』
美枝子からのメッセージには、ただその一言が書かれていた。
「俺の誕生日……?」
続けて、たたた、たたたんと聞き慣れた音楽が掛かる。美枝子からの着信だ。震える指先で通話をタップすると、「お父さん!」と甘やかな声が聞こえた。
「保!」
どれほど待ち望んだか知れない、息子の声がスピーカーから流れている。俺は両手で電話を包み込むように握りしめた。
「保、本当に保か。お前、元気なのか」
『うん。お母さんが、ちょっとだけならいいって』
「たもつ……」
声が震える。
「ちゃんと食ってるのか? つらいことはないか?」
『今は平気だよ。お父さんも元気になって』
胸にどうしようもない愛おしさがあふれ、頬を涙が伝い落ちた。ああ、抱きしめたい。今すぐに。
「会いたいんだ、保。早く帰ってきてくれ」
『お母さんが、まだ帰れないって……』
「どうしたら良いんだ? なんでもお母さんの言うとおりにするから、帰ってきて欲しいって伝えてくれ」
保の声が遠ざかり、電話の向こうでなにやら囁き合うような声がした。
『お父さん。ぼくたち、本当に帰っていいの?』
「何言ってるんだ、いいに決まってるじゃないか」
『あのね。お母さんが、女の人をどうにかするまでダメだって』
――まだそんなことを言ってるのか。
「いい加減に信じてくれ、俺は浮気なんて……あ、いや……」
保にそんなことを言うわけにはいかない。慌てて口をつぐむと、保の残念そうな声がした。
『あ、もう、切らなきゃ』
「ちょっと、ちょっと待ってくれ。まだ……」
『もうすぐ会えるよね? お父さん。またね』
応える前に通話が切れた。俺は諦めきれず、今度はこちらから音声通話の表示をタップする。
たたた、たたたん。
くぐもった、聞き慣れた音楽が、押し入れの中から聞こえてきた。
「……あ」
――そうだ。
そうだ、そうだった。
俺がこの部屋で電話を掛けるたびに、あの音楽はそこから聞こえてきていたのだった。
俺は押し入れを開ける。美枝子の衣服をまとめたダンボールの中に、画面の割れたスマホがあった。今日はまだ充電が残っている。そうか、俺の誕生日――昭和50年10月23日。5、0、1、0、2、3とパスコードを打ち込むと、やっとロック画面が開いた。
「俺の誕生日だったのか。そうか……」
ふふっと笑みが漏れた。やっぱり美枝子はちゃんと、俺を愛していたのだ。
妻のスマホ画面は簡素なものだった。俺はSNSのアイコンをタップする。家族とはいえプライバシーを覗き見るのは気が引けるが、背に腹は代えられない。
彼女は日記代わりにSNSを利用していたようだ。フォロワー0のアカウントは、三か月前の日付で更新が止まっていた。
遡って書き込みを読んでゆく。パート先の同僚やお袋、俺への愚痴などが事細かに綴られる中で気になる記述があった。
『二月〇日。今日も悪戯電話があった。最近毎日のように掛かってくる。何も喋らないけれど、息遣いから、女のような気がする』
『二月×日。おかしな手紙が届いた。無記名の封筒を開けると、カミソリだけが中に入っていた。保が見付けなくてよかった』
『三月〇日。悪戯電話を録音することにする。専用のアプリを探すのが少し難しかったが、無事に録音できた。無言。』
――うちに嫌がらせをしている人間がいたのか。
初めて聞く事柄の数々に、俺は目を丸くした。美枝子の様子が苛立っていたのはこのせいだったのだ。
『三月×日。夫をベッドへ誘ったけれど断られた。疑いたくはないけれど、浮気をしているとしか思えない』
そして最後の書き込み。
『三月〇×日。初めて悪戯電話の相手が喋った。やっぱり、私の疑いは正しかった。悔しい。今夜も夫は帰りが遅い。女に会いに行っているのに違いない』
俺はSNSを閉じて、通話録音アプリを探した。マイクのマークがそれだろうと当たりを付けて開き、三月〇×日のデータを再生する。
『もしもし? いい加減にしてちょうだい、毎日毎日』
美枝子の声だ。
久々に聞く声は剣があっても懐かしかった。早く、また毎日聞きたい。
相手は無言だ。『もしもし? 切るわよ?』美枝子の声に苛立ちが滲む。
ふふっ、と女が微笑む息遣いが聞こえた。
『なによ。何がおかしいの』
『私、あなたの旦那さんとお付き合いしています』
プツリ、と唐突に録音が終わる。通話が切られたのだろう。
「ああ、なるほど――」
すっと全てが理解できた。
そういうことか、やっと合点がいった。
このせいで、美枝子は俺が浮気をしていると思い込んでいたのだ。
「そうか、そういうことか。早く話してやらなきゃ……」
「誰に何を話すんですか?」
不意に背後から掛けられた声に、俺はゆっくりと振り返った。ああそうだ。うっかり、チェーンを掛けるのを忘れていた。
俺の後ろにぴたりと張り付くように立つ園田彩未はうっすらと微笑みを浮かべている。
「奥さんもお子さんも、もう亡くなっているんですよ。落合さん」
噛んで含めるように、まるで小さな子供に言い聞かせるように彩未が言う。俺は「ははっ」と声を上げて笑った。
「参ったなあ、一体いつ合鍵を?」
「死んでるんです。あの夜、事故に遭って」
髪を下ろした彩未からいつもの花の香りが漂う。
「いい加減、現実を受け入れて彩未のことを見てください。彩未はずっとずっと落合さんのことしか見てないのに」
録音された悪戯電話の声。あれは確かに彩未のものだった。
この女は、偶然俺と同時期に入社したのではない。もっとずっと前から、俺に付きまとっていたのだ。そして俺に近づく機会をつけ狙っていたのだろう。
「俺、君に何かしたかな。どうしてこんなことを?」
「あの頃、毎朝同じ電車に乗っていて――落合さん、一度、痴漢から私を庇ってくれたんですよ。覚えてないですか?」
確かに一度、電車で痴漢を注意したことがあった。隣に立つ禿親父がOLらしき女の尻をゴソゴソと触っているのに気づいて、俺のせいにされては敵わないと思ったのだ。
「おっさん、やめとけよ」
そう言うと、禿親父はぎょっとした様子でそそくさとその場を離れていった。恥ずかしそうに俯く女の顔まではろくに確認しなかったが、そうか――あれが彩未だったのか。
「はあ。善いことなんかするもんじゃないな……」
「やっと二人が死んでくれたのに、まさかその現実自体を忘れちゃうなんて。ねえ? 彩未の身体は気持ちよかったでしょ? 目を覚ましてください」
あの夜。美枝子の運転する車は、何かを避けるように急ブレーキを踏みながらハンドル操作を誤り、電柱へと激突した。運転席は電柱でグシャグシャに潰れ、シートベルトをしていなかった保はフロントガラスで頭部を強打、首の骨が折れていたそうだ。
深夜なので目撃者はいなかったが、警察はおそらく飛び出してきた動物かなにかを避けたのだろうと言っていた。歩行者ならばそのまま通報するだろうと思われたからだ。
「俺は現実を忘れたりしてないよ。美枝子も、保もちゃんと帰ってくる」
「しっかりしてください、落合さん。今日のあなた、昼間からすごく変です。彩未、心配で見ていられなくて。そりゃ、オバケが見えるふりをしたのは悪かったですけど、それは落合さんと仲良くなるきっかけが欲しかったからで。ね、優しい落合さんなら分かりますよね? 彩未がどんなに――」
俺は両手を素早く伸ばし、彩未の細い首を掴んだ。
「お、落合さん……?」
仕事を辞めたのも引っ越しをしたのも、家族を亡くした男へ向けられる憐みの視線に耐え切れなくなったからだった。心の殻に閉じこもるうち、ふたりは本当は出て行っただけなのではないかと思い込むようになった――だが、今は違う。
美枝子も、保も、ちゃんといる。
この家ならば、霊道に乗ってふたりは帰ってくることができるのだ。
――お母さんが、女の人をどうにかするまでだめだって。
俺は両手に力を込めた。やっと分かった。美枝子はもう俺の浮気を疑ってなどいない。あれからずっと俺のことを見守っていてくれたのだから。
「っ……」
彩未の顔が驚きに歪む。
どうにか――復讐するまで。そういう意味だったのだ。
彩未が身をよじる。俺たちは床に倒れ込んだが、手は緩めない。睡眠薬さえ飲んでいなければ、こんな小娘に力で負けるわけがない。
赤く充血した目がこちらを睨み付けようとして、そのまま、視線を俺の背後へと滑らせた。
「分かっただろう? ちゃんと、ふたりはここにいるって」
ビクビクと細い身体が痙攣する。まだ油断して力を緩めたりしない。大丈夫、しっかりやり遂げるから、安心して帰っておいで。期待に心が躍る。
これからは家族三人、ずっとずっと、仲良く暮らしていこう。
了
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