まるで文通のような。
最近、ひとりの友だちができた。彼とは1〜2ヶ月に一度ほど、顔を合わせれば軽く挨拶をする程度の関係だったが、ひょんなことからメッセージのやり取りが始まった。
あるときから、彼はテキストではなく音声メッセージで返信をくれるようになった。わたしにとってそれは非常に新鮮な体験で、毎回あたたかい気持ちにさせてもらえる。
音声メッセージは、1分程度。もしこれを文字に起こしたなら、長い長い吹き出しになってしまうだろうし、毎度そのボリュームでテキストメッセージが来れば、大抵の人は戸惑うだろう。
音声メッセージには、わたしが送ったことに対しての返事も含まれているのだけど、その内容は用件だけではない。
彼がいま考えていることや最近あったこと。これからやりたいこと。そうしたことを、ていねいに言葉を選びながら、わたしが目の前にいるように話してくれる。
自己開示が苦手で、頭の中であれやこれやとこねくり回してややこしくしてしまうわたしは、彼の純粋さに学ぶことが多い。わたしもそんなふうにできたらいいのに、と思うことがたくさんある。
そしてわたしは音声メッセージを聴きながら、ガラケーすらなかった遠い昔にしていた、文通のことを思い出していた。
伝えたいことが溢れて便箋がつい何枚も増えてしまうことも、ポストに手紙を見つけて心が躍る瞬間も、封を切って返事を読む時間も、書き損じがミノムシになっていることも、ぷくぷくのシールの手触りも、ただの情報伝達ではなかったなあと思う。
むしろそこに「用件」はあったかというと、なかった気もする。所詮は子ども同士のやり取りなので、大した用件などなくて当然ではあるのだけど、手紙という「閉じた場所」ならではの心理的な検閲のなさもまた、いいものであった。
わたしは、手紙に込める少しの自分勝手さと「一方通行な熱量」が好きだ。
レターセットを選び、言葉を選び、封筒をとじるシールを選び、切手を選ぶ。手紙という所作のすべてが「選ぶ」を重ねるものであり、目の前にいない相手のためだけに存在している時間だ。
しかし、そういう熱量を無機質なテキストメッセージに落とし込むと、とたんにおかしなことになる。あれには情緒を乗せてはいけないし、短ければ短いほどいいものなんだろうと思う。
親指一本、ほんの数秒で送れてしまうテキストメッセージは、用件を伝達する手段としては便利な反面、お互いをわかり合うコミュニケーションとしてはあまりに味気ない。
わたしは口頭で話すことが非常に苦手なので、音声メッセージをもらっても結局テキストで返信してしまうのだけど、マイペースな「声の手紙」をもらうといいものだなあと思う。
コミュニケーションの便利さとスピード感に、わたしは少々疲れてしまっているのかもしれない。読んだとか読まないとか、誰と誰が繋がっているとか、そんなことは常に見えなくても、本当はよかったはずなのだ。
ポストに出した手紙の存在のように、頭の片隅に置いて一旦忘れてしまっていいことが、ぜんぶ、いつも、見えすぎている。それもただ見えているだけで、何もわかっていないのに、わかったような気になってしまう。それがさまざまなことを、ややこしくしてしまう。
あの頃、便箋の上にひと文字ずつ綴って、他の誰にも見えないようにそっと封をしていたように、言葉もお互いのことも、もっと少しずつていねいに交わせたらいいのに。
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