見出し画像

何もできなくなった自分から学ぶ事

SNSでは、日常のささやかな幸せを発信し、幸せそうにしているけれど、実は、毎日、無気力感に襲われ、苦しんでいる。

次男を亡くすまでは、どこまでもポジティブで行動派だった。

子育てと家事と仕事に追われていても、早朝3時に起きて、モーニングページを書き、読書して、自己向上に努めた。

次男が逝ってしまっても、2週間で仕事復帰し、ダンスで汗を流し、悲しみを克服しようと努力できた。ショック状態だったのだろう。逝ってしまった、と頭でわかっていても、次男の死を受け入れていなかったのだろう。

それまでとは違った虚無感に襲われたのは、息子の死後2年経った頃だった。息子はもう居ないという現実を、イヤでも受け入れなければならない、と気付いた時だった。

虚無感は悲しみ以上に、厄介で危険だ。

悲しみにくれている時は、亡くなった人と悲しんでいる自分に存在価値を見出すことができた。悲しみを克服する為に、ピアノを弾いたり、料理したり、パンを焼いたり、何らかの行動が可能だった。

しかし、虚無感は、無気力感や無感情を導き、ベッドから起き上がるのも億劫になる。自分の存在価値は消滅し、罪悪感と嫌悪感に襲われる。

思い切って、起き上がり、無理やり自分を行動させようとする。しかし、持続力も持久力も弱くなっていて、何かを始めても続かない。

次男にもそんな状態があった。失恋を期に鬱が悪化し、勉強好きで、有名大学をあと少しで卒業、という時に、学校に通えなくなり、実家でゲームばかりしていた。

その頃の私には、息子の状態を理解してあげることができなかった。ゲームが彼の命を繋いでいたのに、無気力に変わってしまった息子を叱ってしまった。

後悔と罪悪感に襲われる。

ありがたい事に、現在、夫も私と同じ様な状態だ。お互いの心の状態がわかるので、お互いを批判せずに、暮らしている。お互いが、本当は真面目で勤勉な事は、わかっている。

でも、今、二人共、弱っている。

私は、スドクやパズルをし、夫はテレビを見ている事が多い。

でも、生きている。

それだけで十分だ。

二人でこの虚無感の中で生き、この先の希望を語る。こんな自分たちも好きだ。

行動的な人は素敵、でも、

やっと人の気持が分かるようになった

何もできない私も、

好きだ。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?