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川おりる 彼女は

 ゆっくりと

彼女はもう このときにあることを拒む

拒んで振り向いて 拒んで解き放れようと 放とうと


207号室の彼女。 ふと、彼女のもらした言葉を思い出した。

戦中のこと、戦死したふたりの息子のこと... 生まれ育った隈という名の地のこと

どんな悲惨な話を語るときも彼女の目は不思議なくらいにひとつの哀愁もなく、ただ輝いていた。

彼女は引き戸の箪笥を意味なく開けた。そこには崩れてしまった認知能力を表すかのごとくのカオスしかなかった。それに彼女はあきれて、少しがっかりした。

ま、ここにもあと何年おるのかわからんけど... 

そう呟いた。

ここ、というのがこの施設を越え、この世、と言っているように聞こえた。

確かめる間も無く、またすべて忘れさって違う方向へ彼女はぽつぽつ歩み出した。

わたしは自転車を走らせていた。

影に落ちゆく山、乱れ走る電線の亀裂入る空は輝き、決して美しいとはいえないランダムな住宅街や店舗や工場にひかり灯る。

コートに身をすぼめ歩き過ぎる男の人たち、自転車の学生、顔を影に落とし表情すら見えない。みなどこかへ帰ろうとしていた。彼らの合間をぬいながらわたしは、彼らと逆行した。


歌が流れる。

ふと、彼女が解き放とうとしているものが押し寄せてきた。

わたしには知り得ない、彼女のありふれた日々の喜びと悲しみ、はかりしれない記憶の層はまるで嵐のようにひどく濃く、圧倒され、わたしの目に一滴の涙を呼び、通りすぎた。

通りすぎ、そのひとつの生は、透明な一滴の涙となって浮かび上がった。

それにはもう彼女のかたちも名前すらも削ぎおとされていた。

永劫に消滅しつつ 彼女の生きた一切を忘れ去られた未来に、かえってゆくのを、わたしは確かにみた。


永遠の 透明な川へ、、、

それが世界のすべてとして すべてを創りつづけていたのを みた

何気ないこの世界を

たとえまっさらで虚無に満ちるようにみえる未来にも 永劫に 彼女は生きつづけた

それが唯一の時の流れだった