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オレンジチャレンジ 八十歳の挑戦者

「幸ちゃんのあのミカンのお菓子の作り方、おばあちゃんにも教えてちょうだいよ」

「あれね、オレンジよ。おばあちゃんあれ好きよね」

「名前はなんだったかな。お友達にも作ってあげたい」

「オランジェット」

 祖母は、私が作るオランジェットが好きだ。初めて祖母にオランジェットをプレゼントしたのは、小学校六年生の頃のバレンタインデー。ほろ苦さが良いと、絶賛してくれた。あれから十年、バレンタインデーの度にオランジェットを作っている。

「じゃあ、代わりに何か料理を教えて」

「そういえば、幸ちゃんには何も料理を教えてないね。秘密にしてたからね」

 祖母はいたずらな顔をみせた。

「そうよ。全然教えてくれないんだもの。何かひとつ、教えて」

「交換条件か」

 そう言いながらしわの入った口元に手をあててにやりと笑う。

「交換条件よ」

「まあ、良いでしょう。レシピの交換なんて、何だかどきどきするね」

 私は祖母に、鶏肉と野菜のスープの作り方を教えてもらうことにした。小さい頃よく作ってもらったからだ。

 買い出しのメモに書かれた通りに食材を揃えて家に帰ると、えんじ色のエプロンをつけた祖母がキッチンで待っていた。

「さあ、作りますか」

「はい、先生」

 玉ねぎ、人参、じゃがいも、セロリを細かく、全て同じ大きさに切って炒めたら、鶏の手羽元を入れてさらに炒めて。

「水を入れてちょうだい。煮立ったら、コンソメと、塩胡椒ね」

「おばあちゃん、あとは?」

「え?」

「他には何をするの?」

「あとは何もしないわよ。出来上がり」

「まさか」

「あとは愛情しか入れてないもの」

 祖母が笑って舌を出す。

「そんな。もっと手の込んだものだと思ってた。すごく美味しいのよ。私の特別」

「ありがとう。でも本当に、これだけなの」

「そうだったんだ……」

「がっかりした?」

 私は首を振る。簡単なのにあんなに美味しかったのは、愛情がたっぷり入っていたから。ノートに、〈愛情〉の二文字を書き足した。

 昼食を終えた私達は、オランジェットを作るためにオレンジを洗っていた。祖母が今どきのスイーツに挑む。なんだか不思議な気持ちがした。

「国産だし、特に防腐剤とは書いていないから大丈夫だと思うけれど、よく洗ってね」

「はい、先生」

 今度は祖母が言った。生徒にしてはずいぶんと高齢だったが、目はキラキラしていて、少しばかり若返ったかのようだった。

 人は何かに挑戦しようとする時、こんなにも活き活きとするのか。鼻歌を歌いながらオレンジを転がす祖母を見て微笑ましく思った。

 オレンジに竹串を刺して穴を開け、茹でこぼしをする。祖母は首を傾げた。

「ああ、これはね、アク抜きなの」

「オレンジをアク抜きするのね」

「丁寧な作り方だとね、こうやって茹でてアクを抜くの。これを一時間水につけておくの。さっきやっておけば良かったね」

「まあ、良いじゃないの」

 一時間が経ち、アクを抜いたオレンジを薄くスライスしていく。包丁を握る祖母の手つきは綺麗で、あっという間にオレンジを切り終えていた。

 たっぷりの砂糖をフライパンに入れ、水を入れてふつふつと煮立たせたところにオレンジを並べていく。柑橘の爽やかな香りがふわりとした。弱火で二十分ほど煮詰めたら、オーブンで表と裏を三十分ずつ焼いて、乾かす。

「なんて時間のかかるお菓子なの」

「おばあちゃんはせっかちだから、待つのがいやでしょう」

「そうね、オーブンを開けてしまいたいくらい」

 腰をかがめ、オーブンのほの明るい庫内を睨みながら祖母が言った。

「絶対、だめだからね」

「はいはい」

 両面を焼いて一時間。乾いたオレンジを冷ましたら、溶かしたチョコレートをその半分につける。

「オレンジ色が透明になって、キラキラしているね。チョコレートで飾って、お洒落だね」

「そうでしょ?」

「半分だけつけるっていうのもまた、粋だよ」

「喜んでもらえて良かった。固まったら、完成だよ」

「教えてくれてありがとう。挑戦してよかった、よかった」

 指についたチョコレートを舐めて、美味しいと祖母は言った。子どものような仕草と笑顔が、可愛らしい。

「幸ちゃん」

「なあに?」

「次は何のレシピに挑もうか?」

「ふふ、どうしようね」

「私が元気なうちは、こうしてお互いが知らないレシピの交換をしましょ。いくつになっても、新しいことには挑みたいもの。私はいつでも挑戦者よ」

「はは、かっこいいね。おばあちゃんならできるよ。ぜひ、喜んで」

 オレンジチャレンジを皮切りに、テリーヌショコラやマカロンまで作るようになった祖母であった。

#挑戦している君へ

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