無観客配信ライブのフラストレーションから未来を考える

大仰なタイトルをつけてしまった...

2020年8月24日(月)・25日(火)、日本のとある老舗バンドの無観客配信ライブが行われた。

私は、このバンドのライブに初めて参加した1986年からずっとこのバンドを追いかけ続けてきた。精力的に活動を続ける彼らは、メンバー全員が還暦を越えた今でも年間60〜70本のライブをこなし、毎年日本全国を2周するツアースケジュールを組んでいる。その中で私が参加できるのは年間15〜20本弱。当然、今年の春も例年通りツアー(当初の予定では4月〜7月)が発表されており、2月半ばにはほぼ全公演のチケット当落の結果が出ていた。幸い確保できたチケットを握りしめて(実際手に握ってたワケじゃないけど)、ツアーが始まるのを楽しみにしていた。

そこへ新型コロナの波がひたひたと押し寄せてくる。ツアーは延期に次ぐ延期。当初は振り替え日程と合わせて発表されていた公演も、徐々に「振替日未定」が目立つようになり、最終的には全日程が振替日未定での延期になってしまった。

ああ、待つさ。ライブができるようになる日までいつまででも待つわよ!

チケットの払い戻しなども用意される中、いつになるのかわからない「その日」を待ち続けることに。払い戻しなんてしてたまるもんですかっ。

と、そんな中、発表されたのが、この8月の無観客配信ライブだった。

周辺の状況から、いずれ来る?と予想はしていたものの予想より早かった!(関係者のみなさま、ありがとうございます!)

待ちわびたライブは。

それはもうサイコーのライブだった!セットリストは両日とも感激もんで。聞きたかったあの曲や、聞けると思ってなかったあの曲や、そう来るか!なあんな曲。パフォーマンスの確かさはお墨付き。伸びやかなボーカルに美しいコーラス、それに完全にコントだよね?なMCも。「いつも通りだ」という安心・安堵からの、嬉しいサプライズと涙...。「感動」なんて一言じゃ片付かない。大ラスは号泣...嬉しかった。久しぶりにライブが見られて本当に嬉しかったし、心底楽しかった。けれど同じくらい悔しさも残った。もどかしかった。...ゆえの号泣。何とも複雑な心境。会えないほどに想いはつのるもの...なのだから...。

やっぱり、同じ時間と空間を共有する通常のライブと、配信ライブは別モンなんだよね、と。そんなもやもやを自分の中で持て余してしまった。この気持ちをどうしたらスッキリ消化できるのだろうか?

翌日の正午まで残されたアーカイブ映像を見ながら考えたのは、こういったものが今後、よりオープンなコンテンツになっていくのだな、ということ。通常のライブはその場にいる人たちで作りあげるクローズな場。(DVD・Blu-Rayなどで発売されて多くの人が楽しめるパッケージになることもあるけれど、それもやはりどこかクローズなコンテンツ感が強い。あくまで個人の感じ方なのだけれど。)

それに対して配信は。多少の制約(配信環境や視聴期限など)があるとはいえ、場所に囚われない。時間にも囚われない。通常ライブの半額程度の料金で見られるし、1枚のチケットで家族全員が見られたりするわけだからチケット代もあってないようなもの。(人が自由に集まれるようになった時に、これが友だち同志にまで広がるとちょっと恐ろしいことになる...んー、それもご新規さんへの糸口になる可能性と捉えれば、それはそれでありなのか?)

物理的に空間として閉じられてない、という事実だけでなく、より気軽にアクセスできる、自由に出入りしうるコンテンツの形なのだな、と感じた。音楽配信によって音楽の楽しみ方が変わってきたように、ライブの形もきっと変わっていく。一度、配信用に撮影されたコンテンツは、その後、動画配信・提供するにしても、流用・転用がしやすいわけだし。(契約上の問題は別として)

これは一部のアーティストの話ではなく一般的に、今後ますます広く、公式のライブ映像がネット上に展開されていくのだと思う。有料・無料問わず。有料なら単発でも、サブスクでもありかもしれない。ライブ1本まるごとでも、1曲単位のパターンも。そうなってくると、ライブ映像だけでなく、MVやオフショット、トークなどもありなわけか。間口はどんどん広がって、選択の幅も広がるのだろう。そんな変化の波にいかにして乗るのか?あえて乗らないという選択肢もあるだろうし、一切出さないというのも、それはそれで価値になる、とも思う。

この時代の転換期。2020年12月には新しい「風」の時代にシフトすると言われている。産業革命以来約200年続いた「土」の時代が終わるのだそうだ。その来たる風の時代に適応していくために、何が必要なのか。どう変革をしていったらよいのだろう?自分ゴトとしてもあれこれ考えてみる。

「新しい生活様式」が叫ばれる昨今。感染症の予防と対策が表立った理由ではありつつ、やるべきことは結局、多様性の追求なんだと思う。技術革新が進んで可能性が広がった今、その変化の中で発展を遂げるものと淘汰されるもの。今まではなしだったコトもありな世の中になっていく。そうなったら何は要らないのか?捨ててよいものと、残すべきもの。何を捨てて、何を拾うのか。何を選ぶのか。

それはやってみなくちゃわからない。経験してみないとわからない。

今回のもやもやは、それをひとつずつ選択していく過程での試練だ、きっと。

配信によるメリットは、どうやら想像していたよりも大きいように思う。あらゆる面でハードルが下がるし、ライブとはいえ、コンテンツ自体は収録であろうが、リアルタイムで行われていようが、それすらあまり関係なくなってくる。

かたやリアルな場でのライブは。時間も場所も収容人数も制限され、ミスしてもトラブルが起きても、取り戻せない。やり直しがきかない。参加マナーも要求される。感染症の問題が解決されたとしても、多くの人が集まる諸々のリスク(イベントを自分たちで主催してみるとこんなに多岐に渡ってリスクヘッジが必要なのか!と驚くよね...)はつきまとう。

更にこの先、VR(仮想現実)もAR(拡張現実)も普及が進んで、今のスマホ並に個人が当たり前に駆使できるレベルになったらどうだろう?配信のクオリティもどんどん高くなる。それはどんな世界なんだろう?きっとそこには新しい世界が、ワクワクする未来が待っている。…ま、それはちょっと先の未来だとしても。もっと近い将来、配信は普通に選択肢のひとつとして成立するのだろう。今は仕方なくそうしている手段でも、むしろ選ばれていく手段に。そうすることによって、より多くの人が参加できる場にもなっていくのだから。

それでもリアルな場でのライブは決してなくならない。あのうねるような会場の興奮と空気の振動を肌で感じられるのは、その場にいるからこそ。そして、ステージ上からエネルギーをいっぱいもらうだけじゃなくて、ステージに客席からのエネルギーを返したい。届けたい。伝えたい。心からの賞賛と拍手と喝采を。ステージと観客とが双方向で繋がれるライブ。そんな日が1日も早くやってくることを祈りつつ、小さな部屋の片隅で「胸いっぱいの愛を」叫んでみる。


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