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ハンガリー人作曲家バルトークの有名曲「ルーマニア民族舞曲」はなぜハンガリーではなくルーマニアなのか?

20世紀を代表するハンガリーの作曲家、バルトーク。彼の人気曲の一つであり、ピアノ、弦楽器、オーケストラ公演の他、近年は吹奏楽コンクールの課題曲としても演奏されているルーマニア民族舞曲。しかしなぜこの作品の題名がバルトークの祖国「ハンガリー」ではなく「ルーマニア」なのか、疑問に思った方も少なくないはず。その背景にはハンガリーの悲しい歴史とバルトークの強い想いがあった…

意外と知られていないのが、そもそもバルトークが生まれ育った村Nagyszentmiklósは当時ハンガリー王国(一時オーストリア=ハンガリー帝国)だったものの、現在はルーマニアに位置し、Sânnicolau Mareと村名までが完全にルーマニア語となっている。

今は国内人口約1000万人、国土面積は北海道ほどの小さな国となったハンガリー共和国。しかし当時、北はポーランド、南は黒海まで広がる大王国だった。19世期にはオーストリア=ハンガリー二重帝国となり、政治、経済、文化全てにおいてイニシアチブをとり、「ヨーロッパの心臓部」と言われていた。
しかし第一次世界大戦で敗れ、1920年6月4日のトリアノン条約で国土の大半を一瞬にして失い、この時バルトークの生地や有名なトランシルヴァニア地方を含むハンガリーの東側がルーマニアとなった。

ある日突然「外国」となった自分の故郷。バルトークをはじめ、当時のハンガリー人はどのような思いでいたのか、想像するだけで心が痛む…

そんな中も民族音楽の収集活動で度々「新ルーマニア」を訪れたバルトークは当然、可能な限りハンガリーのルーツを持つ人を探し、民謡や踊りを積極的に集めていた。それを資料として持ち帰り、気に入ったものを自作へ反映させる事で人々に馴染みやすい音楽を発信しようと考えていた。その時誕生した作品の一つが6つの舞曲からなる後のルーマニア民族舞曲だ。

スケッチの段階では「ハンガリー農民の踊り」という題名が付いていたが、後にバルトーク自らが「ハンガリーのルーマニア民族舞曲」へと書き変え、更に出発の直前には「ルーマニア民族舞曲」へとタイトル変更した。そこには戦争を憎み、社会人として、音楽家として、そしてなにより一ハンガリー人としての強い想いがあった。

戦争の結果は悲しくも、悔しくも今は受け入れる事しか出来ない。そこに反抗すると更なる戦争へと繋がってしまう。今後は隣の国ルーマニアと良好な関係を築いて行きたい。そう願い、あえてこの作品をルーマニア民族舞曲と題し、更にはルーマニアの親しい友人、Ion Busitiaに献呈した。

このような背景をイメージした上で作品を聴くと、また違ったバルトークの音楽が聴こえてくるのではないでしょうか。

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(©︎Miyujik Official, 2020)
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