昭和な(?)気づかい 電車の中

 久しぶりに「都心」へ出た。電車と地下鉄を乗り継いで目的地へ向かう。

 電車に乗ると緊張する。駅の様子や乗り換えの要領が、毎日通勤していた頃とはかなり変わっているということもあるが、人との接触にストレスがかかるから、だ。

 まだ日々通勤していた頃から、電車の中でストレスを感じることはけっこうあった。

 例えば、満員電車に乗り込むとき。車両の中ほど、両の吊り革の間にまだ人が入れそうなのに、入口近くに人が充満していて、進めない。

 なんとか中ほどに立つ位置を確保しても、揺れて体やかばんがぶつかるとあからさまに嫌そうな表情をされる。

 下りる駅に着いたらまた一苦労。これまた入口近くの混雑のために進めない。

 どの場合でも積極的に「すみません」と声をかけてから動くのだが、多くは無反応、ときどき押し返してくる人や、触れるのも触れられるのもイヤ、という感じで自分のかばんをグイっと引く人もいる。ヘタすると「チッ」と舌打ちされる。その時点で神経はすり減り、エネルギーは半減する。

 もう昔語りになるのだろうが。昭和の終わり近くのことだが、就職して上京した頃は、公共の乗り物の中で、人びとはもっとやさしかった。簡単に言うと、周囲に気を配り、声をかけあい、譲り合っていた。混雑していて乗降がしづらい人に気づくと「乗ってくる人がいまーす」「下りる人がいます、通してあげてー」と声をあげる人が必ずのようにいた。

 そんな光景は、わたしの感覚では平成になってから少なくなった。もっともわたしは平成の始めの5年ほどは海外にいて、帰国後の通勤の際に「あれ?」と思ったのだが、その頃はまあ「あれ?」程度だったと思う。

 明らかに違うと感じたのは、それからまた海外で働き、再び戻ってきた2000年代後半。電車の中は、極端に言うと殺伐とし始めていた。ちょうど非正規雇用の増加が問題視され始めた頃で、わたしは「貧すれば鈍するなのかなぁ」と思い、電車に乗るたびに「国会議員もたまには満員電車に乗ってみるべきだ。そうすれば国民がどれだけストレスを抱えているかわかる」とずっと考えていた。この頃から、電車の出入り口にみんなが固まるようになり、舌打ちが増え、いちど確保したスぺースを「絶対に」譲らない人も出てきた。踏ん張って動かないのだ。

「お違いさま」という言葉はもう死語なのかなぁ、と感じたものだ。そしてそれはいまに続いている。

 それからまた海外で働き、その後は通勤生活に入る必要もないままコロナ禍を迎えた。いまは通勤時間帯に電車に乗る必要がなくて助かっている。毎日通勤してたら、神経がもちそうにないから。

 日本人はやさしい、とよく言われるし、そう思っている日本人は多いと思う。でもほんとうにそうですか? 電車の中での身が縮むようような「接触」に、わたしはどうしてもそう思えないでいる。

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