橋本治 「巡礼」

橋本治第3弾、近隣に迷惑をかけまくるもゴミを(本人はゴミだと思っていない)集めまくる下山忠市の生涯を描いた作品。序盤はゴミ屋敷を巡る「現在」に焦点を当て、近隣の住民がどのようにその「ゴミ屋敷」を見つめ、その側で暮らしているのかが、住民の心理描写を中心に描かれていた。だから、最初は「ゴミ屋敷を巡るトラブルの全容」を描いた、ワイドショー的作品なのかと思ったが、読み進めていくうちに内容はその「ゴミ屋敷の主」に視点が移り、いかにしてゴミ屋敷は出来上がるにいたったのかというのが大きなストーリーの軸となっていった。

戦時中に生まれ、高度経済成長期とともに成長していった下山忠市。彼は荒物屋の長男として生まれ、跡継ぎになるべく「町」の商店へ住み込みで勤める。真面目で働き者だったが、どこか内向的な部分があり、前回読んだ「橋」の登場人物もそうだったが「物事を深く考え込まない」タチである。柔軟性はあるが、悪い言い方をすれば「行き当たりばったり」の人生だ。

仕事も自発的に探したのではなく、親の勧めで決めた。初めてを経験した女も、偶然的にそうなった。結婚相手も、勤め先の社長に紹介され、多少の違和感を感じながらもなし崩し的に一緒になった。その妻との生活や、自分の母親との折り合いも、ただ傍観しているだけで状況を打破すべく行動することも、まして現状を分析したり改善したりしようという気持ちも、そもそもそのような発想自体ない。

主人公の母親も、受動的な人間だ。彼女は主人公以上に働き者ではあるが、嫁ぎ先の事業である「与えられた仕事」を訥々とこなし、長男の嫁選びにも口出しをせず、変化していく状況をあたかも「黙って受け入れている」ようである。

ただ、このような受動的な人間にも「不満」はたまる。いや、「受動的」だからこそ、ことさらに不満は募る。そして「受動的」な彼らはその不満を「能動的」に吐き出す術をよく知らない。漠然と不満はたまっていき、「受動的」である以上、その不満が「勝手に」解消されることはない。そしてどんどん不満は膨らんでいく。はけ口としてようやく見いだしたのは「家族」だった。

家庭内で不満を吐き出しまくったらどうなるか。その答えは自明で、家庭内に不和が生じ、その家庭は居心地の悪いものとなっていく。「能動的な」人間はその居心地の悪い家庭から逃げ出す。すると「受動的」な人間はさらに不満を募らせる。

受動的な二人が生み出した最終的な逃げ道は、「周囲と自分たちとを断絶させる」ことだった。自分は自分に「与えられた」(と思っている)仕事をただひたすらこなす。それだけだ。その結果、自分の中を流れる「時間」と外の「時間」にズレが生じる。いったん生まれたズレは、もうどうすることもできずにどんどん大きくなっていく。忠市はひたすらにゴミと思しき「商品」(になるかもしれないものたち)を集めることで、自分の仕事を全うしようとする。だが、「外」から見ればそれはトンチンカンな行動だ。

私が一番感動したのは、忠市の弟、修二の存在だ。修二は幼い頃から「能動的」な人間で、だからこそ家を出た。家を出て立派に自分の家庭を築き上げた。だが、「受動的」な自分の兄を憎むことも蔑むこともなく、きちんと「家族」としての責任をまっとうし、理性を持って接し、最後まで「家族の絆」を守り続けた。物語の大部分ではあまり出てこない端役だが、本作のキーパーソンであることは間違いない。堕落しみじめになった兄を、ここまで思いやれることの難しさよ。これは修二の性格が成せる技なのか、それとも彼の責任感なのか。私にはきっとできない。

不幸な家庭は世の中にたくさん存在していると思う。だけど、その「不幸」には原因があることがほとんどなのではないか。ここでも「考えよ」というメッセージを、作者は発しているように思えた。

これにて橋本治はしばらくお休み(の予定)。久しぶりに外国文学に手を伸ばしてみようかと思う。

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