糸井重里v.s.秋元康

ここんところとても良い生活リズムを掴めてきている。
昼間は仕事&空き時間と通勤は(趣味の)読書。そして夜、家事を済ませて娘を寝かしつけた後は、個人的に学びたい分野の読書&勉強。25時就寝、6時起床。
新しい職場では、探求学習の指導に従事することになった。だから(だからでもないんだけど。単に今までのやりかたに飽きたというのも大きい)、新しい授業スタイルについてずーーーーーーっと考えている。授業の「開発」がしたい。
目下考えているのは、国語科に「実験」を導入する方法。教材や授業によっても方法は様々だけれども、とにかく色んな科目で「実験」をするのは面白いんじゃないかと思っている。ただ、次の職場はかなりの進学校なので、上司の理解はあれども実践できるかはかなり謎。まあでも大学入試改革もはじまったことだし、何とかゴリ押ししてみよう。

そのように、「新しいもの」を作ろうと考えていたら、「文化」(人間が作り出したシステムやモノやアイデア、デザインも含めての)って大きく二分できるような気がした。それが、「糸井重里v.s.秋元康」なわけです。糸井重里じゃなくて、下北系バンドマンとジャニーズ系アイドルでもなんでもいいんだけれども、要するに、「自分がいいと思ったものを広げていく文化」と「広く一般に受け入れられるように作られた文化」ということ。

新しい文化を創ろうと思ったときに、「儲け」を最優先して考えれば当然後者を意識して作り出していくことになる。イノベーションってのは、とにかく経済発展に必要不可欠なものであるし、「儲け」のことを考えるのもいいんだけど、やっぱり「儲け」を最優先に考えて作られたものって、一過性の魅力しかないし、儲けたお金同様、市場を席巻したとしてもすぐにぐるっとまわって中古市場へさようなら〜という悲運にあると思う。

一方で、「自分がいいと思ったものを広げていく文化」の場合、即時的な利益はなくても、ジワジワと世の中を変えていったり、人の価値観を変えていったり、きちんと「意味」のあるものになると思う。もちろん、「自分がいいと思った」とはいえ、それが独りよがりな評価だったら価値はないし、そこは作り手がいかに他人を慮れるか、ということに尽きるのだけれども。(だから、自己中なひとには絶対にこういう文化を創ることはできない)

秋元康的文化って、すごく簡単な言葉で(むしろ言葉がわからなくても伝わるような)、言ってしまえばそれを理解するのに知性や知識を一切求めないように作られていて、だからこそ受け取る側は思考停止状態になっていると思う。理解するのに知性が不要なものは、それに触れている間中ずっと知性が不要だから、見てて聞いてて楽。そのうえ自分で「好み」を見つけられないような人にもなんとなーく、気づかぬうちに浸透していく。だからものすごい流行するし、経済効果もうまれるだろうし、盛り上がる。でも、付加価値は?と考えたとき、経済効果以外の付加価値なんてないと思う(何をもって付加価値というかによるけど、少なくとも私の考える付加価値はない)。

ちなみに、私の考える付加価値とは、一過性のものではない「個人的な感動」。ずーーーっと大事にとっておきたいと思えるかどうか(モノだろうが、アイデアだろうが、文章だろうが、システムだろうが)。役目を終えた後も、大事にしまっておきたくなるかどうか。世の中の価値観が変わっても、残るもの(つまりは汎用性ないし普遍性)。
超個人的にいうと、「脳みそくすぐる系」。

その点、糸井重里的な文化は、リスキーだけどちゃんと付加価値を生み出していると思う。きちんと考えられたアイデアだったりデザインだったりなので、息が長い。そしてちゃんと「生活」に入り込んでくるところがウマい。「わかりやすさ」という観点では優れたものではないけれど、そもそも私たちが生きていく過程で必要なのは、分かりやすく加工された情報を摂取することではなくて、情報という形になっていない情報を、どの位自分で理解して吸収するかということに尽きると思う。だから、「わかりやすいもの」には何の面白みも感じないし、付加価値がないと思う。

もちろん、世の中をまわしていくためには両方とも必要だし、「好き」か「嫌い」かは個人の好みによるし、まして「良い」「悪い」で議論することでもないんだけれども、もっと「付加価値」を生み出せるようになりたいな、というただそれだけです。

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