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「フレンパ」~友だち以上父親未満~ 第三話

そもそも、この香港最後の日に設定した会食は、一週間ほど前に十和子から誘われたことで実現した。ちょうど帰国の前日しか予定の空きがなかった吾朗は、内心嬉しさと驚きの入り混じった心境で、その誘いに応じ、今もその嬉しさを抱きながら、この場所に来ていたのだった。というのも、これまで平日のランチでは、数え切れないくらいに、二人で向かい合って食事をしてきたが、夕食については、今日が初めてだったからである。

タイ料理特有の、香り立つ料理が次々と運ばれ、ひと通り食べ終わったところで吾朗は、酔いの勢いもあってか、思い立ったように二次会へと十和子を誘った。それは、下心から生じる言動ではなく、相手が女性であっても男性の場合と変わらない対応をする、吾朗の性格から生じる発言だった。

「いいわよ。最後だしね。どこに行こうか?」

「モンコックに、以前からよく使っていたカラオケスナックがあって・・・」

「あっ、それ知ってる。”寄り道”っていうスナックでしょ?」

十和子の言葉に頷きながら、吾朗は支払いの合図をウェイトレスに送った。そして、勘定書がテーブルに置かれると、ジャケットから使い込んだ茶色の財布を取り出した吾朗を制するように、十和子は勘定書を自分のほうに引き寄せ、支払を済ませたのだった。

「じゃ、行こっか」

そう言って席を立つ十和子とタイミングを合わせるように、吾朗は改めて食事のお礼を告げて立ち上がると、先に店のドアを開けた。 

店の外では、十月の香港では珍しく爽やかな風が吹いていた。そのせいか、いつもの蒸し返るような暑さを感じさせる空気が、きれいに洗い流されている。そして、その風は、少し火照った吾朗の頬を冷ますように、街の通りを心地よく吹き抜けていた。

「あっ、あのタクシーに乗らない?」

そう言った十和子は、吾朗の手を握ると、ちょうど二人の前を通り過ぎた空車タクシーの後を追うように走り始めた。

ルームミラーで二人の存在に気づいた運転手が車を停止させると、十和子は自らタクシーの後部ドアを開けて、吾朗へ先に乗るように視線で促した。

「さすが、男勝りな若山さんらしい、タクシーの停め方ですね」

吾朗がタクシーの後部座席で、隣に座る十和子へ笑いながら言った。

「当然よ。こうでないと、海外で女ひとり、生きてゆけないからね」

「そんな~。だって、もう結婚されているし、今はもう、女ひとりじゃないでしょ?」

酔ったせいもあり、吾朗は少しくだけた口調でそう言うと、十和子の横顔を見つめた。

「ねえ、綾島くんって、いま・・・、彼女いるの?」

十和子が急に真顔になって、隣で見つめる吾朗へと視線を向けた。

「まあ、日本に、結婚を考えている女性は・・・」

「じゃ、今日だけ、私が綾島くんの彼女になってあげようかな~」

そう言いながら十和子は、酔っているのか、いないのか、判然としない意味ありげな笑みを吾朗に送ったのだった。

東京・中野。
そんな昔の、香港で経験した記憶をたどりながら、スナック・カノンのカウンターで吾朗は、広東語のラブソングを歌い終わった。すでに三杯目となる水割りのグラスは、飲み干された状態で吾朗の目の前に置かれている。

「この歌って、もともと日本のラブソングでしょ?」

「そう、歌詞を広東語にしたカバー曲だよ。ちょっと、以前に香港で勤務していた時のことを思い出しちゃって・・・」

カウンターの向こうに立つ佳乃子へ、そう話した吾朗が、何気なく視線を向けた腕時計の針は、既に午後八時半を回っていた。

「そういえば、以前に、何度か一緒に来られた同期入社のお二人は、まだ海外勤務なの?」

カウンター越しに、そう言った佳乃子は白く細い指先で、吸っていた煙草を灰皿に置くと、空になった吾朗のグラスを手にして、おかわりの水割りを作り始めた。

「あぁ、あの二人は今も海外赴任中で、それぞれ現地で支店長になっていてね。赴任してすぐに昇格したから、いずれ本社の部長として帰国するパターンかな」

そう言う吾朗の顔には、若干の悔しさが滲んでいる。

一年半前、本社総務部で研修担当次長として子会社から復帰した吾朗は、海外赴任前研修で参加していた同期入社の二人と、都内の研修センターで再会した。その際に吾朗は、二人の借り上げ社宅が、自分と同じ西武新宿線沿いにあることを知ったことから、三人の中でも、都心に一番近い新井薬師前駅周辺に住んでいる吾朗が幹事となり、駅近くにある店で二人のために、海外赴任前の壮行会をしようと持ちかけたのである。

そして、一次会の居酒屋を決めた後、二次会用のスナックを探していた吾朗は、駅を利用するたびに気になっていたスナック・カノンの看板を思い出した。そんな経緯で、吾朗は事前の料金交渉と下見のために、初めてカノンのドアを開けたのだった。

「あのお二人、あなたと違って、我儘なところがたくさんあったわ。水割りをもっと濃い目にとか、おつまみをもっと出してとか・・・、カラオケなんて、自分の曲を入れようと、リモコンを離さなかったしね」

「ママって、二人のこと、そんなにすごく観察してたんだぁ。そんな些細なことまで、よく覚えてたね」

吾朗は、そう言って、佳乃子が差し出した三杯目の水割りを手にした。

「だって、二十五歳から水商売してるのよ。でもね・・・、私は、そんなめんどくさいタイプの男より、綾島くんみたいに、顔に似合わず、真面目で優しい男が好きよ」

そう言って自分の煙草を取り出した佳乃子は、目の前にある吾朗のライターを借りて、くわえた煙草に火を点けた。

「顔に似合わず?」

「そうよ。ハンサムで色男だけど、遊び下手な綾島くん。あなたみたいな男って、かなり希少価値が高い男なのよ」

煙草のけむりを吐き出しながら話す佳乃子の顔を、吾朗は「えっ」と驚くように見上げた。しかし、そんな佳乃子は、いつものツンとした顔をしながら、こんどは自分用に焼酎の水割りを作り始めている。

「ちょっと失礼なこと言うかもしれないけど・・・、お友達の二人みたいに見た目や性格が”それなり”のサラリーマンって、やたら目立とうとすることが多いものよ。でもね、綾島くんには、そんな面倒くさいところが全くないのよね」

「それって、喜んでいいのか・・・」

「だって、往生際が悪かったり、ガツガツしていないから、セクハラや不倫疑惑で付いたバッテンも、結果的には甘んじて受け入れたんでしょ?それって、ある意味、男らしい潔さがあって、わたしは好きよ」

その言葉に吾朗は、どう答えていいか分からず、ただ苦笑するしかなかった。

「人生の風に逆らわない、そんな生き方って理想だと思うのよ。まあ、私はそのせいで、二度も離婚して、子供は娘が一人いるけど・・・、後悔はないわ」

「なるほど・・・」

これまでの佳乃子に対する印象とは違って、意外ともいえる人生論を耳にした吾朗は、ただ頷くしかなかった。

「じゃあ、これからの綾島くんに乾杯」

佳乃子は、そう言って、自分のグラスを傾けると、吾朗のグラスに当てた。

「カラ~ン、コロ~ン」

ちょうどその時、入口ドアが開く音がした。すると、初老の男性が数名でカノンの店内へ入ってきたのだった。話し声からすると、彼らもまた吾朗と同様、美人ママの佳乃子を目あてに、ここに通っている常連客のようである。

「じゃ、ママ・・・、そろそろ」

他に客がいない空間で、佳乃子とゆっくり話しながら飲みたかっただけの吾朗は、それを機に、片手で会計の合図をした。そして、吾朗が三杯目の水割りを一気に飲み干した後、佳乃子が見せた金額は、二千円だった。安くしてくれたことに驚いて目を丸くした吾朗は、すでに店内に入ってきた数名の常連客の手前、恐縮した表情で黙ったまま支払いを済ませると、店のドアへと向かった。

「綾島くん・・・、頑張ってね」

カウンターの内側から佳乃子が、ドアを開けようとした吾朗へ、ウインクをしながら声をかけた。そんな佳乃子に、照れながら手を上げて挨拶をした吾朗は、ゆっくりとドアを開け、店の外へと出たのだった。 

駅の北側、徒歩十分ほどの場所にある社宅へ帰ろうと、駅前広場のすぐ横にある踏切で電車が過ぎるのを待っていた吾朗は、先ほど佳乃子から言われた『男らしい潔さがあって・・・』という言葉を思い出していた。

「男らしい潔さなんて、全くないよ。単純で、そして弱気で未練がましい男だよ・・・」

目の前を電車が通り過ぎたあと、徐々に上がってゆく遮断機バーを見ながら、吾朗は佳乃子へ語りかけるように、つぶやいた。

第三話 おわり


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