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リリック with エッセイ

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オリジナルのリリックにエッセイを添えて・・・。
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#ビジネス

春待ち小唄

日本には、四季を感じることば、文化、風習がある。都会にいても、それは多少なりとも感じ取ることができる。ただ・・・ビジネスや日々の暮らしにおいては、すべてが高速化、効率化、簡便化されて季節感をゆっくり味わうことが少なくなったように感じるのは、私だけではないと思っている。録画されたテレビ番組を1.5倍速で見る若年層も多いと聞くが、スローな文化も一方で認める寛大さに期待したい。 「春待小唄」 立冬 過ぎし 霜月は 感謝と祈り 幼子の 七五三から 実りの 初穂 八百万の国 惟神(

本当のさよなら

別れの涙。それは、ある程度の時間を経て、訪れることもある。別れた人の姿、生き方、愛情が実感できたとき、それは自然に流れ落ちるのかもしれない。そのとき、人は、本当のさよならをすることができるように思う、過去を思い出として、引き出しに納めることができるのではないか。 「冬の山ひとり」 吐く息白く 冬の山 歩く 峠の道 ひとり むかし二人が 教えてくれた 見晴台へ 石畳  遠くに 白き アルプスが オレンジ色に 染まる 夕暮れ 思い出す旅 冬の山 歩く 峠の道 ひとり 父と母

フェードアウトという終わり方

ビジネスにも、恋愛にも、人間関係という面でみると、終焉は大なり小なり必ず存在する。ある関係性の終わり方には、ケンガ別れ、円満な別れ、音信不通などの自然消滅等々あり、パターンを数えればきりがない。つまり、人の顔や指紋がひとりひとり違うように、十人十色。ただ、終焉に向けた何らかのアクションについては、それを出す側、出される側と、多くの場合ほぼ間違いなく両者が存在すると思っている。もし、終わりを告げられたら、どんな姿勢で臨みますか?言いかえれば、終わりのマネジメント。まあ、これも、

崩れ去ったあとに

何かを失ったとき、人はその大切さに気づくものです。仕事、家族、健康、日常のあたりまえ。何かにせかされるように生き急ぐのはなぜでしょう?人は常に「何か足りない」を繰り返しながら、生きているのでしょうね。 「砂の城」 浜辺で作った モニュメント 波にさらわれ 崩れていった 何も なかったかのように 守りたいもの それは 心の中にある 嘘のプライド それとも密かに 隠しもってる 執着なのか 守ろうと すればするほど 傷ついて 傷つく度に 崩れ去ってゆく  何も なかったかのよ

トンネルの向こう側

いま辛い、いま苦しい。ビジネスの中で苦難と向き合っている時間がある。結末は見えない。ただ、その瞬間に味わうことは必然かもしれない。人生の設計図通りに、コトは運ばれているのかも。しかし、プレーヤーにはそのカラクリは分からない。つまり、ただ苦しむ戦士たちなのである。 「To the future」 本当の自分に戻る その日まで 心から笑える その日まで 悔しさを押しこめた笑顔なんて 見たくない 満たされてない 作り笑顔・・・見たくない 街のショーウインドウが 映し出す 張

香港回想

香港が一番輝いていた時期はいつだろう?もちろん人によって異なるとは思うが、1997年までは続いていたと感じている。かつて1年ほど住んでいたまち・・・香港。通りを歩けば、いろんな臭いが漂う街でもあった。ただ、スターフェリーの上には、蒸し暑さも少し和らぐ、きれいなそよ風があったように思う。欲望、野望、希望たちが満ちていた街を、少し忘れることができた。そして恋や夢を追いかけた。そんな思いを、詩(うた)に込めて。  (写真は HONG KONG TOURISM BOARDから) 「

人生コレクション

生き急ぐという言葉があります。時折、自分が何を求めてこのビジネス、この仕事をしているのか?ただ日々を同じように過ごすだけ。そんな感情も人間なら当然です。「これでいいのか?」という否定的な疑問でなく、人生のコレクションをゆっくり・着実に増やしているだけ。そう考えていいのかもしれません。 「人生コレクション」 冬の朝 白い息 吐きながら 自分の 歩く道 見つめる どこに つながって どこへ向かって いるのか  分からない もしかしたら 分かろうと しないだけ いつもの時間 い

輪廻転生

自分にあった仕事、ビジネス。それに巡り逢えた人は幸いかもしれない。多くの人は、やりたいことを我慢しながら、何かのため、誰かのために働き続け、生涯を終える。死に際に、「もっとやりたいこと、すればよかった。失敗なんか恐れずに・・・」と思うかもしれない。そして、輪廻転生を繰り返すのだろうか。 「理想への旅」 これまでの すごした歴史 振り返ってみる 特別なことなんて 何もなかった 平凡な日々 それが幸せと いうものなのか 私はどこへ 行くべきなのか 何を求めて 生きてゆくのか

輪廻の果てに

刹那に生きることも、一つの経験。ビジネス現場でそんな生き方をする若者もいるでしょう。あえて良心を押しこめて、何に向かっているのかもわからないままで。「今だけ、金だけ、自分だけ」の生き方をしながらも、時には立ち止まって「これでいいのか?」くらいは感じるのも事実でしょう。戦う相手は、案外自分自身なのかもしれません。「国破れて山河あり」には、人が地球にとって刹那の存在ということを、示唆してくれているように思います。「海は死にますか、山は死にますか」万葉のむかしも、そんな問いかけをす