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希望のイメージは、清らかな水と明るい太陽。

中公新書ラクレ『希望学』にはそう記述されていますが、希望を光に例えるとしたら、それは昼の太陽ではなく闇の中の光のような気が私はします。

「生命現場でのケア」に関する勉強会でのことでした。

講師は、終末期ケアに携わっている産婦人科医、受講生の大半は助産師でした。講義内容は、希望というのは一人の中で完結するものではなく、人間関係の中で作られていくのだ、という印象を強く感じるものでした。

挫折経験にふたをしてはいけない、ある程度の距離があるからできる支援がある、など全てが希望学に通じる内容でした。

命の現場に携わる医師や助産師、看護師などの支援者は、死産や流産など「死を迎えるまでの時間が短い命を身体に宿していた人」や「目前に迫る自らの死期を知りつつ生きていく人」に接する事を避けることができません。

避けられない「死」と向き合い、苦しんでいる人を目の前にした時、その現実とどう対峙し、どんなケアをしていけばいいのか。

その話題の中でこんなお話がありました。

憧れの職業に就き初めて知った理想とのギャップに「これがやりたかったの?」「これでいいの?」と悩み、仕事の意義を見出せなくなる苦しい時期に出会うことを「スピリチュアル・クライシス」と呼ぶらしいのですが、産婦人科での仕事に携わる人は「新しい命の誕生をサポートしたい」という想いで働いているだけに、死産や流産のケアは本当に辛く悲しい体験であり、誰しもが必ず、仕事に対する無力感を味わう時期を迎えるそうなのです。

しかし、そんな辛い現実に戸惑いながらも、わずかに希望を持ちながら続けていく事によって現実世界に沿った理想的なケアの在り方を知り、変わっていく。

つまり、死産や流産を「なかったこと」「早く忘れるべきこと」としてケアするのではなく、どんな形であれ命の誕生は喜びであり、短いながらも1つの人生が確かに有ったことやそれに立ち会えたこと、そして、家族の一員として過ごした時期があったことを、母親や家族が受け止められるような体験となるよう支援していく道があることに気づいていく人がいるのだと。

当事者と支援者の双方が、その辛い出来事を挫折として捉えるのではなく、「その体験からしか得られない何かを得る」機会にしていくことができるのだ、というのです。

排除されてきた体験にふたをせず、そこに関わりあった人同士が体験を共有・発信していく中で社会性が生まれて転換され、新しいものとして生産されていくこと。

これは「希望の修正体験」そのものだ、と思いました。

そして、希望は挫折や絶望という闇の中で自分の居場所や行く先を見失った不安な心をそっと照らす、ほんのりと優しい月の光のようだと思いました。

「大きな苦しみを受けた人は恨むようになるか優しくなるかのどちらかである」その講師の方は、続けて言いました。

苦しい出来事に出会った時、心にふたをしないでその苦しさをうまく出せたり、人に支えられたりすると、人は優しくなれる。

心の傷は治ったり、なくなったりするのではなく受容できていくものなのだ。

医療現場では、「どんな命でも受け入れること」が前提なのではなくとにかく正常に産ませようとしてしまう傾向がある。もちろん、悪気はなく。

しかし医療の世界でいう「正常」とは単に「平均」のことでしかない。生命を平均で判断していいのだろうか。

大切なのは、あるべき姿を押し付けることではなく、死や異常を受け入れていくこと。挫折や絶望経験にふたをしないこと。それを通してしか学べないことを共に学ぶこと。

本人も支援者側もそこでの体験と人間関係を通して成長し変化していく。

死産や流産についてだけではなく、正常産についての関わり方や意識までもが挫折経験をしなかった時よりも、よい方向に変わるのだ。

だから、挫折にふたをせず、その苦しさを伝えあえる人間関係を大切にし、寄り添っていくことが、支援者のあるべき姿なのだ。

そう主張していました。

勉強会の中で先生は、受講生にこんな風にも問いかけていました。「筋ジストロフィーで、自分は次の季節が来る時期まで生きられないと知った人にどう言葉をかけますか?」
誰も答えませんでした。

すると、「そんな人が書いた詩です」といって下記の詩を紹介してくれました。

僕は冬に生きるから、春の浜辺の夢は見ない。
耐えられないからだ。
社会に出て出世する夢は見ない。
結婚をして家庭を持つ夢は見ない。
僕には何か生きる意味がいる。
新しい価値の基準がいる。

ふと、ダイエーの中内さんの 「希望を持たないことで生き残った」という話(「希望学」文中)を思い出しました。

しかし、ある青年は 希望を持つ事を選んだそうです。そして同じ病気で苦しむ人を支えるために本を書いたそうです。

「もし僕に明日があったなら」という出版社からの提案を却下し「たとえぼくに明日がなくとも」というタイトルで本を出版したそうなのです。
石川正一『たとえ僕に明日がなくとも』立風書房

「挫折や絶望を転換できれば、やがてそれは新たな力になっていくのだ」
先生はそう言っていました。でもそれは、周囲の力があるからできることなんだと。そして、目の前の一人を支えることはやがて連鎖し、多くの人を支えていくことにつながるのだ、と。

希望というのは、人の心をつないでいくものなのですね。

闇から光へ、
過去から未来へ
そして人から人へ、と。

そういえば、私が今まで抱いてきた希望もまた、自分1人で見つけたのではなく、自分1人で育ててきたのでもなく色んな人の影響や支えの中で芽生え、時に壊れながら形を変えて育ち、過去から未来へと変化し続けてきたように思います。


下記サイトへの寄稿記事を修正・再掲:
「東京大学社会科学研究所 希望学プロジェクト」旧サイト「希望学の成果」より
https://project.iss.u-tokyo.ac.jp/hope-archive/result/kibogaku_kanso.html

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