憧れの旅
会社員の頃、通勤中にふと、このまま旅に出たらどうなるだろう、と考えたことがある。
きっと、ものすごい開放感にちがいない。思い切ってやってみようか。会社に一本電話を入れて……。
もちろん、実行はしなかった。
そのまま戻って来なくていいと言われそうだったからである。
それでも、そういう予期せぬ旅立ちへの憧れは消えず、かわりに、駅に着いてから行先を決める旅というのを考えた。
その日旅に出ることはわかっていても、行先は駅に着くまでわからない。切符売り場でパッと最初に閃いた場所へ行く。
通勤中の旅立ちほどのインパクトはないものの、前日まで考えもしていなかった場所に自分がいるという唐突さが面白く、何度もそうやって旅をした。あらかじめ計画して出かけるより、旅の情感も濃かった気がする。
しかし厳密なことを言えば、行先はまったくのデタラメというわけではない。なぜなら、予算の都合もあれば日数の制約もあり、すでに行ったことのある場所はなんとなく除外したりもするから、駅に着いたときにはおおかた選択肢は絞られていて、突然決めるという自分ルールも、どこか出来レース感が漂うのである。
そもそも翌日から旅をするのに、前日までどこへ行くか考えないで過ごすこと自体が難しい。楽しみだから、ついあれこれ構想を練ってしまうのだ。
まあ、そうまでして不測の旅をしなければならない理由もべつにないわけだけど、まさか今日こんなところにいるとは思わなかった、と自分で自分を驚かせたいという変な欲望はいまだ消えず、次なる作戦を模索する日々が続いている。
ちなみに今やってみたいのは、ヒッチハイクの旅。
ヒッチハイクしながら旅するのではない。ヒッチハイクされながら旅をする。
つまり私が車を運転して旅人を拾い、その人が行きたい場所へ送り届ける。そしてそこでまた誰かを拾って新たな場所へ送り届ける、そんな旅である。
行先は拾ったヒッチハイカー次第。自分がこれからどこへ行くのやら、拾ってみるまでまったくわからない。
できれば拾うのは海外から日本に来た旅行者がいい。ほとんど日本語がしゃべれない人なら最高だ。お互い何言ってんのかわからないまま、噛み合わないドライブを続けたい。
問題は、ヒッチハイカーがそう都合よく現れるとは限らないことだ。
自分がヒッチハイクする場合は、そのうち誰かが乗せてくれそうな気がするが、ヒッチハイクされる側になってみると、誰かを拾える気が全くしない。ヒッチハイカーなど、そうそう出会わないからだ。
じゃあ、ボランティアで旅行者を運ぶ仕事でもしたらどうか、と言われるとそれは嫌である。最初から期待されると面白くない。
誰も拾ってくれないんじゃないかと不安を抱えながら路上に立つ旅行者の前に颯爽と現れたい。
そしてヒーローのような口ぶりで、こう言うのだ。
「君はラッキーだ。ちょうど私も青森まで行くところだったんだよ」
ほとんど実現の可能性はなさそうだけど、そんな旅に憧れている。
日経新聞プロムナード2015.8.20
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