科学技術の進歩と仕事

 今ある仕事の何割かは、十年後、二十年後にはもうなくなっているという話を、あちこちで読んだり聞いたりする。

 たとえば、全自動で走る車が実用化されることになれば、バスやタクシーの運転手はみな失業だろうか。

 全部機械がやってくれるなら、人間の生活はどんどん楽になっていってもよさそうなのに、それでかえって気苦労が増えていく感じがするのは、不思議なことである。

 実は私も、科学技術の進歩によって自分の仕事を奪われたことがある。

 会社員時代のある時期、私は取締役の出張によく同行した。
 同行して何をするかというと、携帯電話を運ぶのである。

 当時、携帯電話はまだ一般に普及しておらず、会社でも取締役だけが使うことができる特別な装備だった。
 今では想像もできないが、それは現在のような手の中に収まる代物ではなく、アタッシュケース大の重たい箱に受話器が載っているという、携帯と呼ぶには無理のあるAV機器のようなものだった。
 なので誰か専属の人間が運ぶ必要があり、まだ若かった私がその役に抜擢されたのだった。

 取締役が出張になると、私はそれを肩から下げて同行した。
 これが結構重く、だいたいDVDレコーダーほどの重さと思ってもらいたい。
 自分の荷物とDVDレコーダーを下げて取締役を追いかけるのは、ちょっとした体力仕事であった。

 とはいっても、携帯電話を運ぶ以外にとくにやるべきことはなく、おおむね気楽な仕事でもあった。
 まれに迎えに来ているはずの車が来ていないときなど本社と連絡をとって段取りしたりもするが、取締役専用のヘリにも乗せてもらえたし、これで給料がもらえるとは夢のようだと自分ではその仕事が気に入っていた。

 ところがその後、携帯電話はあっという間に小さくなって、この理想的業務は消滅した。
 まさに科学技術の進歩によって、私の仕事が奪われたのである。

 もちろんそれだけが自分の業務だったわけではないけれど、私としては、出世とは無縁の楽な仕事をして生きがいは休日の趣味のほうで見つける、そういう人生でいいかなと思っていたから、頭を使わなくてもできる気楽な業務がなくなったのはとても残念だった。

 わからないのは、携帯が小さくなって私が運ばなくてよくなったのなら、私は仕事が減った分、楽になってもよさそうなのに、なぜかそうはならなかったことである。

 計算上は、浮いた時間何もしなくて給料をもらったとしても、それで会社はとくに揺るがないはずだが、空いた時間は別の業務が入って忙しくなってしまった。
 おかしいではないか。便利になったら、それだけ仕事が減りそうなものなのに、なぜ減らないか。
 そうでないと、何のために科学技術が進歩したのかわからないではないか。

 進歩するなら、仕事が減るか楽になる方向に進歩してもらいたい。いや、実際そうなってるはずだが、その空いた時間を休みに充てることなく、さらに仕事を詰め込んで、それで当たり前だと思っているのは、いったい何の呪いであろうか。

日本経済新聞プロムナード2015.07.30

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