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オホーツクの熊

    網走市の郷土博物館で素敵なものを見た。

 熊の彫像である。

 柔らかく愛らしいフォルム。写実的でありながらも、猛獣の面影はなく、むしろ家族の一員であるかのような優しい表現。まるで現代のアート作品といっても通用しそうだ。いったいこれを彫ったのは誰なのだろう。

 実はこの熊、8世紀頃に北方から海を越えて北海道に渡ってきたオホーツク人の手によるものなのである。網走市のモヨロ貝塚から出土した。

 北海道といえばアイヌ、と誰もが思うが、北海道の歴史は縄文からアイヌへ移り変わったというような単純な話ではない。それは縄文から、続縄文、擦文と続き、その擦文にオホーツク文化が混じりあって、トビニタイ文化が誕生し、それがやがてアイヌへと受け継がれていくという複雑な過程をたどっている。本州以南とは成り立ちが全然違うのだ。

 実際、北海道の風景は外国のようだ。学生時代に初めて上陸したとき、それが本州とまるで違うことに驚いた。とくに道東、道北の湿原や草原は、北欧に来たかと錯覚するようなしっとりとした憂いを感じさせた。

 といってもヨーロッパ風というのともちょっと違う。もっとサーミや、イヌイットといった人々が暮らす北極圏の原初の風景を彷彿させた。オホーツク人の正体も、まさにそうした北方民族であるニヴフの人たちだったのではないかと推察されている。古代において、北海道は氷に閉ざされた島というより、北の民に開かれたグローバルな世界だったのだ。

 そのことに気づくとき、北海道の旅は、国内にいながらにして、別の文化圏の味わいを感じるふしぎな体験になる。札幌や旭川などの都市ですら、何か本州以南とは決定的にちがう空気を持っている。

 ともあれ、私は網走市郷土博物館で見たこの熊に魅せられてしまった。館長の米村衛さんにお話をうかがうと、これはセイウチなどの海獣の牙を彫ったものだと教えてくれた。アイボリーよりやや哀愁を帯びたこのグレーは、海獣の牙の色だったのだ。

 隣には『オホーツクのヴィーナス』と呼ばれる有名な女性の半身像も陳列されていたが、私にはこの熊のほうがずっと素敵に見えた。

 「何かいい名前をつけてやってください」

 そう言われたものの、なかなか思いつかない。どんな愛称が似合うだろう。


 産経新聞「明日のことは旅行してから考えたい」より


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