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アラビア語を話し、神をアッラーと呼んでいたイスラエル成立以前のパレスチナのユダヤ人たち

 1948年のイスラエル建国や、19世紀後半以降、エルサレムにユダヤ人の国家を建設しようとするシオニズムによってユダヤ人たちがパレスチナに大量に移住してくる以前、パレスチナで暮らしていたユダヤ人たちは、アラブのムスリムやクリスチャンたちと共存し、アラビア語を話していた。現在のパレスチナ人のムスリムやクリスチャンと同様に、神のことを「アッラー」と言い日常の挨拶の言葉は現在のアラブ人と同様に「アッサラーム・アライクム(あなたの上に平安あれ)」だった。

イスラエル以前、パレスチナに住んでいたユダヤ人たち https://en.wikipedia.org/wiki/Palestinian_Jews


 現在のイスラエル領、ヨルダン川西岸、ガザ地区と重なる地域では16世紀の中葉にはユダヤ人人口は10、000人にも満たなかった。オスマン帝国資料では19世紀中ごろのパレスチナの人口は60万人程度、80%がムスリム、クリスチャンは10%、そしてユダヤ人は5%から7%といったところだった。シオニズムの潮流があるまでユダヤ人はごく少数派であった。

 シオニズムによるユダヤ人の大量移住前のオスマン帝国のパレスチナではユダヤ人は、彼らにとって聖地であるサフェド、ティベリア、ヘブロン、エルサレムに住んでいた。エルサレムを除いてこれらの都市に住む人々は主にアラビア語か、ユダヤ・スペイン語(=ラディーノ語)を話していた。ユダヤ・スペイン語はユダヤ人がイベリア半島から追放される以前に話していた言語で、15世紀末のスペイン語の特徴を残していると見られている。1882年エルサレムでは、7620人のセファルディム(スペイン・ポルトガルに住んでいたユダヤ人)/ミズラヒム(中東に住んでいたユダヤ人)/マグレビム人(北アフリカに住んでいたユダヤ人)が登録されて、そのうちの1、290人が北アフリカ出身の「マグレビム」と呼ばれるユダヤ人たちだった。これらの都市に住むユダヤ人たちの国籍はオスマン帝国で、アラブ人とのコミュニケーションはアラビア語で行われていた。

 イスラエルがパレスチナ人たちをアパルトヘイトに置く契機になったのは、言うまでもなく、ユダヤ人のナショナリズムであるシオニズムによってイスラエル国家が成立したことや、1967年の第三次中東選戦争でパレスチナを占領下に置き、またアメリカがイスラエルの占領政策を支持していることが大きい。

 18世紀のフランス革命を契機にするナショナリズムが台頭する以前、パレスチナではアラブ人とユダヤ人の対立はなく、15世紀にイベリア半島からユダヤ人たちが追放されると、イスラムのオスマン帝国はユダヤ人たちを歓迎して受け入れた。絹などの織物技術や、オスマン帝国が貿易関係をもっていた国々とのユダヤ人たちの通商交渉・仲介能力にオスマン帝国政府は注目していた。ヨーロッパから追放されたユダヤ人たちはオスマン帝国のサロニカ(テッサロニキ、ギリシャ北部の都市)、エルサレム、サフェド(アラビア語ではサファド)などに移住してきた。

 サフェドは、現在イスラエル領のガリラヤ湖北にある町で、ユダヤ教にとっては由緒があり、ここでの古代のラビ(律法学者)たちの議論は、『タルムード』(ユダヤ教の口伝律法と学者たちの議論を書きとどめた議論集)にも記されている。サフェドはユダヤ教の「四聖都」の一つで、16世紀以降、ユダヤ教の神秘主義「カバラ」と結びついて発展した。

サフェドの街。アラブ的雰囲気を醸し出している。 https://www.beinharimtours.com/news/things-to-see-and-do-in-safed/


 「カバラ」とは人間が神と一体となり、神の智恵を得ることを目標とするユダヤ教の神秘思想だ。やはり神との合一を目指して瞑想や断食、歌、踊りなどの修行の階段を進むイスラム神秘主義を想起させるが、カバラは元々スペインのカタルーニャ地方で発展したもので、ユダヤ人が戒律を護り抜けば、ユダヤ人世界だけでなく、全人類が平和になると考える。そしてこのような思想的展開は、キリスト教世界では許容されず、ユダヤ教に寛容なイスラムのオスマン帝国だったからこそ発展、完成させることができた。

 サフェドに移住してきたユダヤ人たちは、オスマン帝国によって彼らがヨーロッパ南部で身につけた技術である織物業に従事することを許され、またユダヤ人の中には優れた医学者、科学者もいて、彼らはイスラムと同じ一神教を信仰していたこともオスマン帝国からは親近感をもって見られた。オスマン帝国のスルタン・バヤズィト2世は、ユダヤ人を追放したアラゴン王国のフェルナンド2世は自らの国家を弱体化させたけれども、自分はユダヤ人によって国を富ませることができたと自画自賛した。

 1948年にイスラエル国家が独立を宣言した時、サフェドの人口の圧倒的多数はアラブ・ムスリムだった。イギリス軍は警察権をアラブ人に譲渡して撤退したが、1948年にイスラエルの民兵組織「ハガーナ」がこの町を占領し、ほとんどのアラブ人が難民として流出してしまった。スペインがユダヤ人を追放して国力を低下させたように、イスラエルもアラブ人の知力、労働力を活用したほうが、その利益にかなう可能性が高いはずだが、イスラエルは真逆のことを行っている。


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