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水木しげる氏は戦記漫画で『戦争のおそろしいこと』『無意味なこと』を訴えたかった―戦没者の怒りは水木氏の戦記漫画に憑依した

 過日、アフガニスタンで中村哲医師とともにアフガニスタンでワーカーとして活動されていた杉山大二朗さんと深大寺門前にある鬼太郎茶屋に行くと、喫茶室は満席で、私たちは屋外のベンチに腰掛けて鬼太郎レモンソーダフロートを注文した。ここの店員は若くて皆元気がよく、はきはきしている。クリームソーダをもってきた店員は、言葉尻に必ず「ゲッ、ゲッ、ゲッ」を付けていた。愛想がよかったので、怖さはなく、こういう妖怪ならいつでもウェルカムだ。アメリカ社会ならばチップをはずみたくなるようだった。

深大寺門前 鬼太郎茶屋


 鬼太郎茶屋にはいろんなグッズがあふれている。鬼太郎の漫画が入った焼酎、ビールのほかに(他にも子ども向けのものがいっぱいあるが)やはりコミックコーナーに目がいってしまう。水木しげる氏の戦記や歴史作品『ラバウル戦記』『コミック昭和史』などを読むと、戦争を生き残ったことが奇跡のように思えてくる。

 水木氏はラバウルの西ズンゲンより先にある「バイエン地区」で10数人の分遣隊でオーストラリア軍と対峙していると、オーストラリア軍に率いられた現地住民のゲリラに襲撃され、水木氏一人だけが生存した。水木さんは、一人でバイエンを脱出し、何日もかけて本隊に戻った。しかし、戻った時に、たった一人生き残ったことをなじられてしまう。


 原隊に復帰すると、所属した大隊が玉砕を決定するが、水木氏の上官の中隊長は遊撃戦を主張して生き延びる。中隊長の児玉清三中尉は死を覚悟していたせいか水木氏によく似顔絵を書かせていた。児玉氏は37歳か、38歳の材木屋だった。中隊長の上の支隊長(大隊長)は陸軍士官学校卒の成瀬懿民少佐だった。27歳の成瀬少佐は上の命令に忠実で、水木氏によれば人間を人間として扱わないようなところがあり、自分を大楠公にたとえて玉砕を命令する。

「変なのはやっぱり士官学校出ていきなり大尉とか少佐になった連中で、人間を人間とも思わないわけですよね。作戦の道具としか思わないようなのがいたねぇ。やっぱり27ぐらいで少佐なんてのは。」(水木しげる「漫画で伝え続ける戦争体験」NHK戦争証言アーカイブス)

 ラバウルの師団司令部に玉砕が伝えられる後、「総員玉砕」ではなかったことが判明すると、玉砕の命令に従わなかった下士官は自決を強要される。

『総員玉砕せよ!』のあとがきで、水木氏は次のように書いている。
「ぼくは戦記物をかくとわけのわからない怒りが込み上げてきて仕方がない。多分戦死者の霊がそうさせるのではないかと思う。」「ぼくは、玉砕で生き残るというのは卑怯ではなく、“人間”としての最後の抵抗ではなかったかと思う。」


 また別のところでは、「本当の戦記物というのは『戦争のおそろしいこと』『無意味なこと』を知らせるべきものだと思う」とも発言している。霊に関する漫画を数多く残したのも、戦場で消えた人々への想いがそうさせたのかもしれない。

 水木氏など兵隊は「無罪」となるが、彼はその直後の空襲で片腕を失ってしまった。現地住民との交流で食料を与えられると、体調も改善して復員した。その生還がまさに奇跡のようだが、今でも愛される水木漫画のことを考えると水木氏が戦争で生きながらえたことは日本人にとっても幸運だったように思う。

 水木氏の漫画の中に登場する「平和な空気を吸って人間の食うもの食っていれば、それが天国」という言葉は、人間社会の共通の理念を語っているように思う。私たち日本人は、戦禍が続く中東イスラム世界やアフリカに比べれば、まがりなりにも「天国」を享受してきた。「天国」ではなかった軍隊生活における飢餓も水木氏の戦記漫画の中でしばしば描かれている。意地の悪い古兵、マラリアなどの疾病、重労働など、従軍慰安婦などアジア太平洋戦争の不合理ぶりが切々と訴え、語られている。勇ましいことを言う人は戦争を知らないからだとも述べられ、いまある日本のタカ派の主張にも釘を差している。


 水木氏の戦記漫画は、現在の日本人に教訓を与えるものだが、そこで描かれる戦場の恐怖の体験を国民が二度としないように、戦争の記憶をしっかり継承し、不合理な戦争に加担するようなことがあってはならない。



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