シアトルのスラム街で育ち、イスラム建築で世界平和を構想した日系人
今日、明日と日本のプロ野球ではオールスター・ゲームが行われるが、メジャーリーグでは、今年はシアトルで行われ、大谷翔平選手もDHとして出場した。
そのシアトルのスラム街で育ち、差別や偏見と戦いながら世界的な建築家にのし上がり、911で崩落した世界貿易センタービルの設計を行ったのはミノル・ヤマサキ(1912~86年)だった。1950年代にアジアやヨーロッパを旅行し、イスラム建築やゴシック建築に接し、数多くの非欧米世界の建築に接することになる。ゴシック建築は、十字軍の遠征で結成されたテンプル騎士団がエルサレムの岩のドームのステンドグラスなどの建築物に接したヨーロッパ人が本国にもち帰り、発展、流行させた様式だった。2019年4月に一部が消失したフランス・パリのノートルダム大聖堂のツインタワー、尖頭アーチ、バラ窓などの様式は元々中東イスラム世界にあったものだ。ゴシック様式は、ヨーロッパの著名な建築物に用いられているが、アメリカでもゴシック様式は、大学やカレッジ、学校などでしばしば見られ、イェール大学の建築物は圧倒的にゴシック様式だ。
1960年代以降、ミノル・ヤマサキの建築にはイスラムやゴシック建築に典型的に見られるミナレットが多用されていった。そうした建築物の中にはシアトル万国博覧会の連邦科学館(1962)やノース・ウェスタン・ナショナル生命保険会社(1964、ミネアポリス)、ダハラーン空港(1961)、サウジアラビア金融局本部事務所(1978)、イースタン・プロビンス国際空港(1988)などがあった。
イスラム建築に感銘を受けたヤマサキ氏は、世界貿易センタービルの設計でも、その様式を採り入れていくことになる。世界貿易センタービルの二つのタワーに隣接するプラザはイスラムの聖地メッカに倣った空間をつくることが考えられ、周辺のウォールストリートなどの雑踏からビジネスマンたちが精神的に解放される場所、空間をつくろうとした。プラザにはイスラム世界では好まれる泉を模した噴水や、広場の中心からは放射線状に広がるアラベスクの模様が描かれていた。
16日に亡くなったジェーン・バーキンが2002年にリリースしたアルバムのタイトルは「アラベスク」だったが、「アラベスク」はヨーロッパ諸言語で「アラビア風」を意味する言葉であり、イスラム美術の装飾文様一般を指す。狭義には装飾化された植物文様のことであり、ギリシア・ローマ文化美術やササン朝ペルシアの文化に起源をもつとされ、11世紀以降になってアンダルスから中央アジアまでイスラム地域で広く見られた(平凡社『イスラム百科』より)。「ブリタニカ」などの説明ではアラベスクは「アラビア風の唐草模様」とあるが、唐草模様は日本にシルクロードを通じてもたらされたと考えられている。
ヤマサキ氏は「世界貿易センタービルが世界の国々が貿易を通じて協力していくシンボルになるためにはその姿は威厳や誇りを持ちながらも米国が信じている人間性や民主主義を象徴するものであるべきです。単に活動の場になるだけでなく、人々の精神を高揚させ、理想とする社会の実現につながらなくてはなりません。」と述べたが、古くから交易によって東西世界を結びつけていたイスラム文化を想起させる設計は人類の協力、人間性、多様性を表すことになった。息子のタロー・ヤマサキ氏(1945年生まれ)は「父は、ただお金を稼ぐために働くという考えに大反対でした。自分が恵まれているときは、仲間を助けるためにできるだけのことをするものだと信じていました。私が育った頃、私たちはあまりお金がありませんでしたが、私たちは皆、本当に良い教育を受けてきました。私たち家族は教育と一定の能力をもちましたが、それは私的利益の拡大のためではありません。私たちは真の社会的良心を持って成長しました。」と語っている。
タロー氏はまた「父の建築の根底には常に人の心を気遣う気持ちがありました。父は世界平和を願いそれに向かって努力する人間の象徴となるようあのビルをデザインしました。その精神は今も死んでいないと考えています。世界平和とは何なのか。誰のための平和なのか。そのことを今も問い続けているように思うのです。」と語っている。(「映像の世紀バタフライエフェクト 9.11同時多発テロへの点と線」(NHK)ミノル・ヤマサキの建築にはイスラムにもある人間の普遍的価値、利他や平安の理念が貫かれている。
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