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ノーベル文学賞受賞者が見た差別がないイスラム・ユダヤ・キリスト教が共存する社会 -ブルガリア

 1981年にノーベル文学賞を受賞したノーベル賞受賞者のエリアス・カネッティ(1905~94年)は、世紀の変わり目の幼年時代に、彼の生まれたブルガリアの都市ルスチュク(ルセ)の平穏と多様性を次のように表現した。

「ルスチュクは素晴らしい都市でした。最も多様な背景の人々がそこに住んでいました。毎日、7つか8つの言語を聞くことができました。ブルガリア人の他には、近所にはトルコ人がいました。その隣にはスペインのユダヤ人であるセファルディム、そしてギリシア人、アルバニア人、アルメニア人、そしてジプシーがいました。」

1981年にノーベル文学賞を受賞したノーベル賞受賞者のエリアス・カネッティ(1905~94年) ウィキペディアより


 こうした観察の中にカネッティが『群衆と権力』で説いた他者理解の上に成り立つ共存への希望を見てとれる。カネッティは、「レコンキスタ」によってスペインからオスマン帝国に逃れたユダヤ人の子孫で、ルスチェクはオスマン帝国の領土であった。彼は、ブルガリアではまったく差別を知らずに育ち、スイスの学校に入って自分が差別される存在だと知ったと語っている。オスマン帝国では中世から近代初期まで西欧とは異なってユダヤ人差別は存在しなかった。

ソフィアのシナゴーグ https://bulgariatravel.org/sofia-synagogue-and-its-history-museum-sofia-city/


 バルカン半島の国ブルガリアはローマ帝国のコンスタンティヌス1世(在位:306~337年)の時代に繁栄し、また342年から343年にかけて教皇の権力が強化されることになったサルディカ(ソフィア)会議が開かれた。4世紀からカトリックを信仰する西ローマ帝国の支配下に置かれ、西ローマ帝国の弱体化とともに、6世紀からギリシア正教を国教とするビザンツ帝国の影響が強まり、1382年にオスマン帝国のルメリア総督が統治するようになった。1376年にハンガリーから追放されたユダヤ人が住み着くようになり、またオスマン帝国のスレイマン1世が1526年にハンガリーのブダ(現在のブダペストの一部)を征服すると、さらにユダヤ人の流入があった。

 このように、多様な文化が混ざり合った結果、ブルガリアでは異なる文化、伝統、信仰の人々が相並んで居住するようになった。

ブルガリアの民族衣装 https://www.facebook.com/beautiful.european.girls.women/posts/traditional-bulgarian-costumebulgaria/1347027125393389/


 ブルガリアは1877年から78年の露土戦争によってオスマン帝国支配から離れても多様性を維持していたが、そのような多様性は第二次世界大戦中に救われたユダヤ人の多さからもうかがえる。第二次世界大戦中、ブルガリアはナチス・ドイツの同盟国となったが、当初はナチスのユダヤ政策に従う政策を見せたものの、正教会の聖職者、政治家たちは国王ボリス3世に働きかけて、ユダヤ人の強制移送を止めるように求め、1943年5月国王も移送への協力を停止するようになった。48000人のユダヤ人の命が救われたと見られ、ユダヤ人移送に最も強く反対した国会議員のディミタル・ペシェフには、日本人の杉原千畝のように「諸国民の中の正義の人」の称号が与えられている。

「町のかどで、飢えて、息も絶えようとする幼な子の命のために、主にむかって両手をあげよ」(旧約聖書の預言者エレミアの『哀歌』)

 1970年から80年代にかけてジフコフ独裁政権の下で信教の自由が奪われ、主にトルコ系民族からなるブルガリアのムスリムたち31万人が国外に移住していった。しかし、東欧革命後は多くのモスクや神学校マドラサも再開され、イスラムの礼拝への呼びかけ、アザーンも国土の多くで聞かれるようになった。ブルガリア社会の伝統はナチスの迫害を受けつけなかったように、カネッティが見たような穏やかな多様性と共存への希望をもつものであった。

バニャ・バシ・ジャーミイ ブルガリア ソフィアのモスク https://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g294452-d2100876-Reviews-Banya_Bashi_Mosque-Sofia_Sofia_Region.html


 ちなみに、ブルガリアのダマスクローズの品種カザンリクは特に香りが強いことで有名だ。ブルガリアのバラの栽培は、オスマン帝国統治時代の16世紀後半にもたらされ、カザンクラを中心とする通称「バラの谷」地域は、ヨーロッパのバラ香油の産地として有名で、ブルガリアはヨーロッパのバラ香油の産地としてその地位を確固たるものとしている。1837年5月21日にカザンラクを訪れたプロイセン及びドイツ帝国の軍人、軍事学者のヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ(1800~1891年)は、「(カザンラクの)空気は香りに満ちており、これは詩的描写でよく表される比喩的な意味だけでなく、文字通りの意味でその通りなのだ。カザンラクはヨーロッパのカシミア、トルコのグレスタン(バラ園)だ。」と記している。

ブルガリアのバラ祭り https://www.magictours-bg.com/special-interest-tours-in-bulgaria/item/97-rose-festival-bulgaria-2017


 ブルガリアのイスラムとキリスト教文化は多くの面で重なり、村落のモスクは教会の建築様式に似ている。首都ソフィアでは、歴史的伝統を誇るバニャ・バシ・モスクが毎週金曜日にブルガリア、トルコ、中東、アジア、アフリカから人を集めて集団礼拝が行われている。オスマン帝国時代に造られたビュユク・ジャミヤ・モスクは現在国立考古学博物館になっている。

ニーナ・ドブレフ ブルガリア・ソフィア出身のカナダの女優 https://wallhaven.cc/w/x8lxkv

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