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武力ではなく、対話で達成した13世紀の中東(パレスチナ)和平

 1224年にナポリ大学を創設した神聖ローマ皇帝のフェデリーコ2世(フリードリヒ2世:1194~1250年)は、対話によってアイユーブ朝のスルタンと中東(パレスチナ和平)を実現した人だった。

 彼はホーエンシュタウフェン朝の神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世と、シチリア王女コンスタンツェとの間に生まれた。3歳にしてシチリア王を継承し、多様な文化に触れながら、ラテン語、ギリシア語、アラビア語など6カ国語に通暁するようになった。彼はイスラム支配があったシチリア島でアラビア科学の影響を受け、学んだ解剖学の知識から人体解剖の経験もあったと言われている。

 フェデリーコ2世の支配したシチリア王国は「学者の共和国(王国ではない)」と形容されるほど、自然科学、哲学、詩作、数学、翻訳などヨーロッパ学芸の中心となった。シチリアは、古典、アラビアとユダヤの知恵、中世東洋の精神、ノルマンの現実主義など多様な文化や学芸が入り交わる環境にあった。シチリア王国は自然科学、詩歌、数学などの諸学をラテン語と現地語で発展させていた。伝統的な権威に従うことなく、自由な学風が学術研究のいっそうの発展をもたらした。アラビア語にも堪能なフェデリーコ2世は、アラブ文化に強い関心をもち、アラブ人とイスラムに対する寛容な姿勢を育んでいた。


 フェデリーコ2世は、十字軍の遠征の合い間にマラリアの感染が広まり、第5回十字軍を途上で引き返したことでローマ教皇グレゴリウス9世(1143年頃~1241年)に1228年に破門されたが、同年、第6回十字軍を主導して地中海沿岸の町アッコに上陸し、地中海に面したジャッファの町に進んだ。アイユーブ朝のスルタン・アル・カーミル(1180~1238年)との間で書簡のやりとりをすると、イスラム文化や科学に精通するフェデリーコ2世の学識に驚嘆と畏敬の念をもったスルタンは、フェデリーコ2世との間に1229年2月18日にジャッファ条約を結んだ。

会談を行うフェデリーコ2世(左から二人目)とスルタン・アル・カーメル(左から3番目) https://twitter.com/ThorEwing/status/1097405197029203969


 この条約は、武力ではなく、外交で成立した、当時とすればユニークなもので、エルサレムとベツレヘム、そしてナザレ、また地中海沿岸地域の一部がフェデリーコ2世のエルサレム王国に割譲され、キリスト教徒のジャッファへの巡礼が保障された。ムスリムたちはエルサレム王国内部の自由の通行が認められ、岩のドーム、アル・アクサー・モスクなどイスラムの聖地は、ムスリム支配の下に置かれることになった。さらに、ムスリムを守るための、交渉前に破壊されていたエルサレムの城壁は、再建されないことになった。またエルサレムのムスリムたちはその家屋、財産を維持でき、キリスト教、イスラムではそれぞれの独自の行政、司法制度をもつことになった。

『ヤマザキマリの偏愛ルネサンス美術論』より フェデリーコ2世


 1229年3月18日、フェデリーコ2世はエルサレムの聖墳墓教会でエルサレム王国の国王の戴冠を行う。彼は自らを救世主、新たなダビデと見なし、彼のエルサレム入城は、棕櫚(シュロ)の日曜日(キリストの復活の前に日曜日、民衆はシュロを敷いて、キリストを迎えたとされる)のキリストの入場にたとえられた。

 フェデリーコ2世はエルサレムのイスラムの聖地であるハラム・アッシャリーフに入り、アル・アクサー・モスクのミフラーブ(メッカの方角を示すくぼみ)と説教壇(ミンバル)の美しさを称え、イスラムに敬意を示した。
 パレルモの大聖堂(イタリア・シチリア島)に眠るフェデリーコ2世の遺骸を包む衣装はイスラム風であり、袖にはエルサレムの平和を共に築いたいた盟友であるスルタン・アル・カーミル(1180~1238年)に捧げられた次の言葉がアラビア語で縫い込まれている。

「友よ、寛大なる者よ、誠実なる者よ、知恵に富める者よ、勝利者よ」

パレルモ大聖堂のフェデリーコ2世の墓 https://www.smarteducationunescosicilia.it/en/palermo/survey-of-the-royal-tombs/?fbclid=IwAR2XFGaJb8R7zoINEsjIrncz4wWMsKEd3MRWXY-3T0cgj8kuWeYoTH0htEU


 フェデリーコ2世が結んだジャッファ条約に比べると、現在、パレスチナのムスリムたちは通行を妨害され、またイスラムの聖地支配も危うくなっている。現在のイスラエルの政治指導者たちに求められるのは武力によらない寛大な支配であることは言うまでもないが、イスラエルの右派の指導者たちが意識する歴史は古代イスラエル王国の支配のみで、宥和よりも排除が優先されているという印象で、イスラエルでは中世の共存や対話の時代は知られることも希薄な様子だ。



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