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イラン・イスファハーンは「世界の半分」と呼ばれるほど繁栄し、東西文明の交叉する都市だった

 19日にイスラエルの報復攻撃を受けたイランのイスファハーンは、サファヴィー朝(1501~1736年)時代に「世界の半分」とも称されるほどの繁栄を謳歌した。イスファハーンが繁栄した様子は、現在でもこの街を歩くと容易に垣間見ることができる。縦が50メートル、また横が300メートルの世界遺産「イマーム(シャー)の広場」を中心にモスク、バザール、宮殿、また神学校が建築された。「イマームの広場」の南には「イマーム(シャー)のモスク」が、また東にはシャイフ・ロトフォッラー・モスク、北にはカイサリーヤ・バザール、さらに西にはアーリー・カープー宮殿が接している。「イマームの広場」は、現在その大部分が池からなっており、夏にはその池から水を放出する噴水が周囲に涼感を与えている。

イスファハーンにおける女性たち https://www.istockphoto.com/jp/%E5%86%99%E7%9C%9F/womens-mosque-in-isfahan


 2020年1月トランプ米大統領がイランとの緊張を受けてイランの文化財を攻撃することも辞さないという考えを明らかにしたことがあった。それを受けて「国連教育科学文化機関(ユネスコ)」は、文化・自然遺産に損害を与えることを禁ずる国際条約を遵守すべきだという考えを明らかにした。イスラエルは国際法を遵守しない国だから再びイラン攻撃した際にイランの文化財を攻撃、破壊することも懸念される。世界遺産の認定を行う(ユネスコ憲章前文には「戦争は人の心が起こすものだから、人の心に平和の砦を築かなければならない」とある。世界遺産は平和のシンボルであり、また戦争の歴史への反省を世界にアピールするものだ。イスラエルのイラン文化財への攻撃は絶対に容認してはならないと思う。

イスファハーンのキャラバンサライを改造したホテル(アッバースィ・ホテル)https://www.facebook.com/Tappersiatravel/photos/a.1358566247621852/1864934916984980/?type=3

 ハプスブルク家出身の神聖ローマ帝国のカール5世は(在位:1519年 ~1556年)〔スペイン国王(在位:1516年 – 1556年)としてはカルロス1世(Carlos I)と呼ばれた〕、1516年から19年にかけてイランのサファヴィー朝(1516年~1736年)の王シャー・イスマーイール(1487年~1524年)に親書を送り、同盟関係を呼びかけた。 シャー・イスマーイールは1524年に没したものの、ハプスブルク家とサファヴィー朝の同盟関係は1529年に成立し、両王朝はオスマン帝国を挟撃するようになる。まさにオスマン帝国によるウィーン包囲が行われた年である。しかし、この軍事同盟はサファヴィー朝がウズベク人のシャイバーニー・ハーンの攻撃を背後から受けるようになると、解消せざるをえなかった。他方でハプスブルク家と競合関係にあったフランスのフランソワ1世(ヴァロワ朝第9代王(在位:1515年 ~1547年)はオスマン帝国と1536年に同盟関係を築いた。まさに、ヨーロッパの勢力均衡の政治である。

 サファヴィー朝時代の陶器やタイルなどの展示は頻繁にヨーロッパの博物館で少なからず見られる。17世紀までにヨーロッパ商人たちは競って、サファヴィー朝第5代王アッバースⅠ世(在位:1588~1629年)が1597年から98年にかけて築いたイスファハーンを訪問した。アッバース1世は、宗教的にも寛容で、ヨーロッパの宗教使節も、旅行者などとともにイスファハーンにやって来た。

イスファハーン イマームのモスク 89年7月

 アッバース1世は、ヨーロッパとの通商を奨励し、サファヴィー朝からは絹が主要な輸出品で、絨毯や織物も盛んに輸出され、ペルシア(イラン)を経済的に潤すようになった。また中国人の陶芸家を呼び寄せ、陶磁器もまたヨーロッパ向けに輸出するようにした。

 17世紀初頭までにサファヴィー朝は、西はグルジアから東はアフガニスタンまでその版図を拡大させ、またカスピ海とペルシア湾を結ぶ国家となった。イスファハーンでは、宮殿やモスク、庭園などが次々と造営され、また市域も拡大していった。多くの隊商たちがこの都市を訪ね、また隊商はここから様々な地域や地方に交易に出かけていった。実際、17世紀後半にイランを訪問したフランスの宝石商のシャルダンは、イスファハーンには1802のキャラバンサライがあったと記録し、イスファハーンのことを「東洋で最も偉大で、美しい都市」と形容した。シャルダンによれば、イスファハーンのキャラバンサライを多く利用していたのは、絹の商売をしていたアルメニア人だったという。

イランの女優 シャブナム・ゴリーハーニー イスファハーンで

 ペルシアは、古代から偉大な文化遺産をもつ国として、畏敬の想いでヨーロッパからは見られていた。サファヴィー朝には政治的安定があり、イランでの旅行は安全で、ヨーロッパの人々もイラン人のもてなしを楽しんでいた。17世紀にはサーディー(1210頃~91/92)の『薔薇園』や『果樹園』はフランスで訳されて出版され、モンテスキュー(1689~1755年)は『ペルシア人の手紙』を書いた(1721年)。 戦争は、当然のことながらユネスコの平和の精神をも踏みにじり、またイランへの報復を考える特にイスラエルの政治指導者たちに人類が共有する文化遺産への敬意があるならば戦争は何としても回避すべきだ。



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