ポケモンと怪獣の関係。そしてポケモンGOの世界は現代のユートピアだなあとおもうこと。

ポケモンGOの再ブームである。

https://www.google.co.jp/amp/s/gigazine.net/amp/20190104-pokemon-go-revenue-2018

直近は、少しお休みしているのだけれども、12月後半まではめちゃくちゃはまっていた。アメリカいっている間もひたすらポケモンGO開いてアメリカ限定ポケモン血眼で探してたし、レアポケモンゲットのためにスイッチのポケモンも、子供を焚きつけてかわせた。やりながら自分もなにがこんなにはまらせるのだろうかとぼーっと考える日々を送っていた。

と、同時に仮面ライダーにはじまる特撮ものにはまる日々も続いていた。みながら、特にゴジラとかウルトラマンの怪獣系は、ポケモンにつながるなにかがあるなーとおもって、で、いろいろ関連文献を漁っている内に気づいた。

ポケモンと怪獣の関係。

ポケモンは間違いなく戦後の日本を席巻した、ゴジラやウルトラマンからつながる怪獣文化の影響配下に生まれた作品だった。

ポケモン自体もウルトラマン・ゴジラの怪獣が元ネタのものは多い(こちらを参照 http://pokemon-matome.net/articles/118990.html )のはいうまでもないのだけど、他にもたとえばその一つの名残に、ポケモン図鑑に、それぞれ全長と体重、簡単な説明がのっている。あれなんかはまさにウルトラマンの怪獣図鑑の構成と同じである。ポケモンで、あれら数値がゲームになにか関係することはないのに、なぜ執拗にあそこまであの数字を全キャラクターに乗せたのか。それはあれが怪獣文化を踏襲しているってのをきちんと表現するためだと思っている。

ここまでのきづきでもおもしろいのだけど、もう少し調べると、古代までのつながりをおえて面白い。さらにルーツを辿ると、ポケモンは神様までいきつく。

そもそも怪獣とはなにか、そしてポケモンとは。

怪獣の元ネタを考えてみると、古代から想像されてきて、恐怖の対象として、よくわからないが、怖いものとして存在してきたモンスター・化け物たちを、近代的なある種の科学的な眼差しで再解釈しようとしたもの、といえる。なので、まあ怪獣も大きくて怖いが、化け物のような怪奇的強さはなくなっている。強さはといっても、どちらかというと生物的な怖さである。

この、新しいパラダイムで、よくわからないものを、よくわかるものとして解釈し直す行為は、キリスト教が異境の神を、化け物と置き換えていった行為に連なる伝統的な行為とも言える。当時もありとあらゆる畏怖されるべき神様たちが、悪魔か邪神として解釈されてしまった。それらの異教の神さまは、キリスト教という新しい時代には、否定されて矮小化されるべきとされた。

そして怪獣。怪獣が生まれた日本において、戦後、前近代的なモノは克服されるべきとされて近代化を急がれた時代があった。それまでの歌舞伎などにでてくるような化物の物語は、感傷的で紋切り型で、そのような物語を愛でる民衆がのさばっているから戦争につっこみ、しかも負けたのだ、とみなされた。そんな反省を元に近代的な文学、政治を作り上げようと言う運動があった。怪獣映画、ゴジラはそんな眼差しの元に誕生したことを知っているだろうか。怪獣は妖怪ではない、生物である。故に科学的に倒すことができる。

このようにあるすべての前近代的なよくわからない、現象や生物は、元々は神とみなされるものの、唯一神または科学の名の下に、おそれることはないと笑いの対象として蔑視され、化物・モンスター、そして怪獣として零落してしまう。

時代が変わり、新しい考え方、イデオロギーがよのなかをせっけんすると、前の時代のものは、取るに足らないものとして再解釈される。

だが、ゴジラ系怪獣映画では怪獣も、科学的存在ではあるが、どこか神のような対象としても扱われる。こらは日本的な感覚でそうなった。ハリウッド版ゴジラを考えたみるとわかりやすい。アメリカではゴジラもただの大きい恐竜だ。

物理的に、科学的な方法で倒せはするので、神ではないのだけど、どちらかというと、現科学ではコントロールは彼方な天災的存在として描かれるのが、ゴジラだ。

しかし、ウルトラマンになると、怪獣はより矮小化ぎすすむ。ウルトラマンは、間違いなくゴジラに影響をうけた作品であるが、怪獣の存在は、より科学的な、生物的なものになる。毎秋、バシバシ悪者として物理的に倒されていく。そして、ウルトラマンにセブンはカプセル怪獣というものがでてくる。そして、そこまでくるとポケモンに近い。制御不可能な怪物らしい怪獣をもっとコントロール可能なものとして矮小化してポケットにいらられるようにしたものものがポケモンとなる流れである。

古代の神さまは、ついにいつでも呼び出され使役されるところまできた。

ポケモンは単なる科学礼賛の作品なのか?

ポケモンは、近代的科学的な世界観で、古代の神様を単なる怪獣として倒していくだけの作品なのかというと少し違うと思っている。倒すのではなく捕まえてコントローラ可能な状態にする、という違い。たしかに、つかまえて、単によくわからないものを、コントロール可能にする、というだけであれば倒すこととそう概念的にはそこまでは、変わらないようにみえる。牛を殺して食べるのも、捕まえて畜産さるのもおなじだ。

ポケモンはでも少しそういうのとは違う世界観だ。そういう世界観にポケモンがあるのであれば、ポケモンを道具として金儲けにつかったり、人工的に増やして食料にしたりするが、しない。

なぜか、ポケモンの世界では、あれだけ利用価値がありそうなポケモンたちを、コミュニティのコミュニケーションを活性化する程度、スポーツ的なものとしてしか利用しない。

リアルなゲームとしても、対戦したり交換したり。リアルな場においても、交換もRMTのようにお金には簡単にできないような設計がされている。

金儲けにポケモンを使うのは、悪で、まさにそういうことをするのがロケット団に代表さされる悪ということになっている。

この牧歌的な世界観は、近代的というよりは、前近代的だ。この辺は、むしろ感傷的なコミュニケーションの活性化という意味では前近代的共同体の強化につながるものだ。金儲け的な発想をするロケット団は、近代的すぎる存在として否定される。

さらに、人気が爆発したきっかけとなったアニメはそこに感傷的な側面を描いて、さらに、ゲームよりも一歩進んで前近代的なモノとしてとらえなおしてしまった。

怪獣の前近代化。退行。あるいみ、怪獣の再妖怪化である。

ポケモン(特にアニメ)は、科学的でもあるが前近代的でもある作品だ。

ポケモンを道具としてでなく、お願い事をしてコントロールする対等な相手とみなす。そこには呪術的関係性が見える。獣とは対等であり、シャーマンが呪術を通して、贈り物をし、負債を相手に与えることによって、それをもって相手を自由に扱える、モノとみなす。この場合モンスターボールは、単なる記号化装置ではなく、依代となる。

そして、この延長上に妖怪ウォッチは生まれたと思う。妖怪ウォッチはポケモンの前近代化の徹底によってできた作品。この流れはここのところの日本におけるやっぱり前近代的共同体はいいものだ、なんていう流れに非常にマッチしていて、それ故に爆発的ヒットにつながっ他と思うのでそれはそれでイイと思う。ただ、こういう前近代的世界観に近づくのは売れるのは売れるのだけど、飽きられるのも早くなると言う欠点がある。たまに田舎に帰るのはいいけれども、ずっと居るとうざいのと同じ。コミュニティ内にしか通じないぬるい空気はだんだんと面倒になってくる。(設定も複雑になりがちだ)

では、結局ポケモンGOとはなにか。

ところでポケモンGOがうけたのは、この前近代的なものへの傾倒から一歩離れて、割とドライな現代的な世界観にしたことが最初のヒットにつながっていると思っている。アニメやアニメの影響をうけた最近のゲームストーリーと違い、キャラには過剰なおもい入れはできない仕様になっていて、割とドライに飴にしてしまえる。たんなる獲物としてみることができる。それは実は本来のゴジラ的怪獣の世界観に近い。(そしてこれはゲームの初代の世界観にも近い。さっきもかいたようなウェットな世界観の萌芽はあるモノの、基本は容量の問題もありドライである)

そう考えると、レイドバトルでポケモンが巨大化しているのは味わい深い。あれはポケモンの怪獣的世界観化とシンクロしているのかもしれない。

シンゴジラも、ウェットになりすぎた平成怪獣映画(何しろ人間の祈りがきいてしまう設定なんてのもあるわけで)から一歩離れて、人間を助けるなんてことは考えそうもない、なおかつそう簡単には倒せそうもない災害的怪獣に回帰し、それがうけた。そのへんとポケモンGOはシンクロしているのかも。

ポケモンGOも最近は、交換とか対戦とかを売りにし始めてきていて、ウェットな世界観に戻りつつあるので、それはそれでいいのだけど(延命という意味で)。妖怪ウォッチの二の舞にならないといいなと思う。今のところイイバランスだとはおもう。

このいいバランスの世界観は個人的にも好みだし、ある意味現代の日本が追い求めるべき、理想のユートピア、世界観に近いとおもう。

よくわからないものは、まあやっぱり怖いから、コントロール可能にはしときたい。が、科学万能、合理性最高として、よくわからないものすべてをバカにしすぎるのもなんか違う。この世界にある、よくわからない不安の対象とは、付かず離れずドライに付き合おうという対処法は、とても現代的だなあと思います。


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