悪口や萎える発言をしてしまう悪癖について

悪口がクールだ、という感覚で悪口を得意げに話して、周囲の人を不快にさせることがよくある。
「それ、かっこわるいよ」といわれても、思考の癖はなかなか治らない。

たとえば6年ほどまえ、会社を辞めたとき、俺を送り出す飲み会で「○○(俺)が結婚して会社を辞めるだなんてなァ。数年前は僕、人と付き合うのメリットがわからないんですなんて言ってたのに…」としみじみ語る20歳以上年上の上司に「いやね、僕ひとつ恋愛のすごくいいことを見つけたんですよ」とネタをフッた。
「ほお!なになに?」と色めき立つ10人弱に、どや顔で「養ってもらえることですわ、がっはっはw」と返す。
会場はシーンとなってしまい、みんなは呆れ、シラケた空気が漂った。
面白くもなんともない、萎える発言だったからだ。

これは悪口というより「萎える」発言だな、と文字にして振り返ってみて思う。

俺は潜在的に人を萎えさせたいと思っている。
たしかににわかに人が調子づいたり色めき立ったりすると、むくむくと冷や水を浴びせ掛けたい気持ちが湧き上がってくる。
そして、それは俺だけが面白いのだ。

悪口は、関西文化だという説もある。

今、仙台でちいかわ飯店が開催しており、コラボカフェは若いちいかわファンでごったがえしている。その目の前を通った妻とわたし。

嫁はん経由でちいかわにまんまとハマった俺は「うわ! こんなのあったのか」と悔しがり、そのあと店先から垣間見えるセーラー服の2人組を見つけ、「ケッ! 学生は部活でもやってればいいんだよ。コラボカフェによく払う金があるな」と毒づいた。
ちょっとだけちいかわのモモンガみたいかなと思ったのだが、嫁はんは怒った。
悪口を言われた女子高生の気持ちになったのだ。

そこで軽い言い争いとなり、しかしこれから映画を見るのでいつまでもけんかをするわけにもいかず悪口を言うのは関西の文化なのかもしれないという結論に落としどころを見つけた。嫁はんは東の出身なのだ。

でも、思い出してみると俺は関西在住、中学の時点で悪口のせいで怒られていた。

当時、学校の先生と班で交換日記をするという文化があった。俺は、張り切って漫画の一ページを模写して絵がうまいフリをしたり、自分の考えを一生懸命書いたり、めんどくさいので少ししか書かなかったりしていた。俺は、中学生であった。
ほかの生徒は部活に精を出したり恋愛をしたりしていたが、そんなことには気づいていなかったし、今でも実態はよくわかっていない。

ある日俺は『陰口は素晴らしい』というテーマでいかに陰口は素晴らしいのかについて日記で論じた。当時大好きだったユーモアエッセイスト/哲学家の土屋賢二の影響をモロに受けたその文章は、のちに女子生徒と付き合っていたことが発覚する当時の担任には受け入れられなかった。
3者面談で母にその文章について告げ口され、俺は泣いた。
ピアノの先生は「○○くん悪くないわ~」と俺を肯定してくれたが、その後俺が貸した貫井徳郎の『生首に聞いてみろ』は「つまんなかったわ~」と散々に文句を言って返された。
俺だって『生首に聞いてみろ』をそんなに面白いと思っていなかったのに、なんで「面白いですよ」とおすすめなんてしてしまったんだろう。

まあ、今振り返れば実に中学生らしいまっすぐで恥ずかしいエピソードでほほえましいのだけど、今も悪口や萎えることを言って怒られているのだからなかなかぞっとする。
そのことを、こうして文章にすることで、爺になった俺が「あの頃はほほえましかったのう」と、以前を振り返る際の予防線を張っておく。


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