だれのために、なんのために
どんなことであれ物事にはそれをやる理由があって、基本的には「自分のため」なのだと思う。
それが誰かの役に立つことだとしても、その対価としてお金を稼いだり、地位や名誉を手に入れるのであれば、最終的には自分のためということになる。
こうしてnoteに文章をせっせと書いていることにしたってそうだ。誰かに読んでもらえて、スキをいただけるとうれしくなるし、ハートマークの数字を気にせずにはいられない。
ブログに文章を書く。Twitterでツイートをする。Instagramに写真をあげる。何の見返りも求めずにやり続けられる人は、はたしてどのくらいいるだろうか。
何かを作って終わりでいいのなら、わざわざそれをウェブの海に放つ必要はない。自分の部屋で黙々と作り続けて満足してればいい。
日記を公開したり料理や手芸の写真を人に見せる必要はない。速く走れたことや山に登れたことを、誰も気にはしていない。
なのにどうしてわざわざ人に見せよう聞かせよう知らせようとするのか。
それは他人の感想を聞きたいからだ。評価をしてほしいからだ。できれば好意的な印象を持ってもらい、あわよくば対価を得たいと思っているからだ。
自分のために。
だれかを楽しませたいとか、勇気づけたいとか、癒したいとか、そういう気持ちがあることもあるだろう。
人に読まれることを意識して書いたり、聴いてもらうことを意識して曲を作ったり、観てもらうことを意識して細部にまでこだわったり。
そういったことのすべてにも、根っこには「自分のため」がないと始まらないと思う。
日々の営みのなかで考えついたり思いついたことを、何らかのカタチで表現したいという欲求。それはべつにクリエイティブなことでなくてもいい。単なる記録であっても、時間が経つにつれて価値を持つこともある。
「そうだったそうだった」とか「あの時はこんなことを考えていたのか」といった感じで、あとで見返すことができるのだって、自分のためだったといえるだろう。
とにかく「自分のため」にやるのだから、自分が納得できることをやった方がいい。
自分はどうしたいのか。
何もしたくないなら、何もしなくていい。
何かをしたいなら、今すぐにやればいい。
前進したければ、とにかく一歩を踏み出せ。
感想も意見も賞賛も批判も地位も名誉もお金も男も女も、すべてあとからついてくる。
そう思ってやり続けるしかない。
そのうちに、どこからともなく人の声が聞こえてきたり、人がまわりに集まってきたりするようになるかもしれない。
きっとうれしくなるだろう。ああ自分がやってきたことは無駄ではなかったという気持ちになるだろう。
でも、その人たちの言うことに耳を傾け過ぎてはいけない。
シロウトの褒め言葉は、薬にも毒にもなる。
彼らの言うことを聞きすぎると、自分がどんどんなくなっていってしまう。何がしたかったのか。何が自分の納得のいくやり方だったのかがわからなくなってしまう。
だから他人の言葉には感謝しつつ、自分の心の声を聴き逃さないように気をつけよう。
自分の人生のために。
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