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日々のこと 1119 走馬灯の素材

誰にも気づかれずに世界からフワッと消えてしまえたらと思う時。やるべきことも楽しみな予定もたくさんあるのに、それとは別次元で「もういいけど」と思う夜。
そんな時、いつもなんとなく思いを馳せる先のひとつが「走馬灯」だ。

死の間際、今までのさまざまな記憶が映像として見えるという「走馬灯」。
私はコレをものすごく楽しみにしている。
何しろ人生の最後の最後に見る映像で、すべての総集編。どんなものが見られるのだろう。気になる。単純にワクワクする。

走馬灯とは、どれくらいの尺なのか。
90分程度あれば嬉しいが無理に決まっている。長くて1分。3秒かも。予告編、せめて特報くらいの長さは欲しいが、コンマ何秒の世界か。
でも超高層ビルから落下でも、電車に轢かれて即死でも、走馬灯の体感時間はきっと変わらない。0.5秒の中に詰め込まれた濃密な映像が見られると信じている。

肝心なのは中身だ。何が詰め込まれるのか。
「就職」「家の購入」「結婚」「出産」みたいな、人生ゲームのコマ的なお祝い事や節目が入っているとは限らない。印象的な出来事、トラウマばかりの可能性もある。私の場合だと、小さい頃に怒られて閉じ込められた「押し入れ」、部屋に出現して大騒動した「超特大サイズの蜘蛛」など。
「出勤して気づいたスカートの下のパジャマのズボン」レベルの「え、なんでコレ?」という、くだらない映像が満載かもしれない。「そりゃ確かにあったけど、今どうでもいいわ!」という映像のみで構成された走馬灯。
今までに「クソつまらない」と思った数々の映画のラストを集めた走馬灯とどっちがいいか。それも相当つらい。最後なのに。

そして思い通りにいかなそうな走馬灯を「編集するのは誰なのか」問題。
よく「映画の神が降りてきた」「ドキュメンタリーの神が宿る」とか言うが、この神様が副業的に走馬灯を編集しているとしたらどうだろう。それならまあ誰も文句は言えないし、膨大な素材を把握する唯一無二の立場としても納得する。私の人生にヤマ場は少ないが「神編集」を見せてくれることも期待できる。編集はとても大事だ。

そんなことに果てしなく思いを巡らせていると「とりあえず走馬灯の素材、もう少し集めるか」と、いつも思えてくる。「実り多き人生を」とか言われるより「面白い走馬灯、見たくないですか?」と言われる方が、私にとっては効果的。だって何度も言うけど、人生最後に見るとっておき映像ですよ。
どんなに良い映画をたくさん見た人生でも、最後が「クソつまらない意味のわからん映像」は、残念じゃないですか。カットされるかもしれないが、せめて良さげな素材提供を。
走馬灯は、きっと誰にも平等だ。ふかふか天蓋つきベッドで死ぬ王様も、寒空の下に倒れたホームレスも、それだけは平等に違いないと思う。
だけどどんなに感動的な走馬灯でも、見た後、誰にも話せない。走馬灯の最も悲しくて、最もやるせない弱点。「私の走馬灯さー、楽しみにしてたらこんなんだった、アハハ!」と笑い合える相手がいたら、それが一番嬉しいんだけどね。


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