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日々のこと 1014

夏の初め、名古屋にいらした平野勝之さんと「ぶらぶら歩いて写真を撮る会」というのをやった。その時、平野さんが私たちにもカメラを向け、何枚か写真を撮っていただいた。
撮られたことすら忘れていたのだが、その時の写真が届いていた。

じっと見て、しばらくしてまた見た。時間を置いてまた見た。何度もそんなことをしていた。なんかなんか、すごく嬉しかった。

私は仕事で人を撮影することも多く、写真は好きだ。でも基本的に私はいつも撮る側であり、撮られることにはいつも慣れない。
そして実は、撮られるのはとても苦手だ。「みんなで記念写真」という時も「じゃ私が撮るね」と、なるべく逃げたい。誰かと記念にツーショット! みたいなのも、よっぽどじゃないと無い。相手だけにカメラを向けて「え、俺だけ?! 一緒にじゃなくて?」と言われたことが何回もある。スイマセン、あなたの写真は欲しいけど、私はその写真に不要なんです。
「写ると魂を抜かれてしまう」と思っているわけではない。私は基本的に自分を残したくないという気持ちがある。いつも存在に自信がない。弱ってくると、それは強まる。

平野さんというのは映画監督でもあるが写真家でもあり、とても素敵な写真を撮る人だ。写真やカメラへの愛情ぶりはTwitterなどでも垣間見えるのでぜひ見てほしい。フィルムカメラにこだわり続け、その日も複数のカメラとフィルムで風景や人々を収めていた。
今回の写真は白黒リバーサル。私は初めて実際に使っている人を見た。撮った瞬間削除できるデジタル写真とは違い、ふんわり優しく温かく、一枚一枚大切に撮られて選んでもらった写真たちなのだと思う。そういう人にカメラを向けてもらったのも、とても嬉しい。撮られる時にはやっぱり私は恥ずかしくて逃げていたんだけど、写真が上がった今は、撮ってもらえたことが本当に嬉しくて感謝している。
ただし写っている自分はとっても照れくさく、「あー、こんなことなら髪も化粧も服も、もっとちゃんとすればよかった!」とかも思うが、素材が素材なので仕方がない…。

つい先日、私の祖母が亡くなった。そこで飾られていた遺影がとても良い写真だった。棺の中の祖母はすっかり痩せてしまっていたが、写真の中で笑っている祖母は私のよく知っている、いつもどおりの祖母だった。写真っていいな、と思った。今日もまた、とても思った。写真はいいものだな。

送られてきた写真に、ふっと存在を認められたような気がした。「そこにいたから撮った」だけの写真なのだが、私はその日、確実にそこにいた。今どき写真の数枚で大げさに聞こえるかもしれないが、泣きたいくらい嬉しかった。
いつか私も消えてしまうし、みんな消えてしまうのだろう。だけど大事なものが焼き付けられて肯定されたような、そんな写真たちがとても嬉しかった。
今年の夏の初め、私は確かにその場所にいたのでした。


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