拳法無頼ジンノー「絶殺の拳士と不死の姫君 の3」
「……」
「……」
言葉もなく、もくもくと街道を連れ立って歩む二人の男女の姿があった。
一人は黒衣の僧服の青年、無頼の拳士ジンノー。
もう一人は旅装姿の亡国の姫君にして、その身に不死の呪いを秘めた美しき少女シャオファ。
悪漢に追われる彼女を救う形で出会った二人は、奇異な縁から街を目指し共に街道を進んでいた。
(我ながら慣れぬことをしているな。やはり儂ごときが説法の真似事などするものではないか)
先を行くジンノーは、黙って後ろからついてきている少女のことを思い遣り、そう自らを評した。
尋常ならざる彼女の秘密を知り、行きがかりから生命の在りようなどを言い合うことをしたが……そこはやはり粗忽な無頼の男の言葉か。彼女の死への思いを説き伏せることはできなかった。
「あの……」
おずおずとシャオファは声をあげる。
「目指す街、というのはどのくらい先なのでしょうか?」
連れ立って歩き始めてからおよそ半日ほど、日暮れも迫った時刻ともなれば彼女なりに先のことを考える必要も出たのだろう。
(ヤケにはなっていないのは良い兆候か)
今すぐ命を断つつもりであれば(まあ不可能なのだが)そのようなことを心配することもないだろう。少なくとも生きてその足で街にたどり着くつもりであることは望ましいことだ。
ふむ、とジンノーは顎に手をやり思案する。
「単にそこそこ大きな街に行くのであれば一両日もあらば辿りつくだろうが……そう簡単にもいくまい」
そう思うのにはわけがある。シャオファも承知していることだ。
「……あの兵士たちのことでしょうか」
「うむ。正規兵である彼奴らはこの地の領主の命で動いていると見て間違いないだろう。そのようなことも言っておったしな」
隊長格の兵士の男はたしかに「自分たちは領主の命に従っている」という旨のことをシャオファに言っていた。
であれば、
「この地――名はラギガ県とか言ったか――から早々に出るほうが先決であろう」
「他の領地に通じる関所などは押さえられていますでしょうか?」
「おそらくな。……だがまあ儂にもツテがあるのでその辺りは心配無用と思え。問題はだ――」
言ってジンノーは周囲を注意深く見回す。
「行く手に待ち受ける敵ではなく、追ってくる敵のほうよ」
「……あの兵士たちがまた来る、と?」
「無論、来るともよ。任務を帯びた兵士とはそういうものだ」
あの兵士たちがシャオファの呪いの利用を目論む領主の命で動いているとあれば、その任を全うできないまま引き下がるということはこれはあり得ないだろうと見立てられる。
「あの程度の者どもなぞ、何人来たところで蹴散らすに物の数ではないが……いちいちと手を出されるのは面倒に尽きる」
まして彼女を守りながらである。ジンノー一人ならばいざ知らず、シャオファが連れ去られぬよう留意しながら戦うとなれば不測の事態というものも十分にありうる話だ。
「かと言うて、こそこそと山野に隠れて進むというのも業腹であるな。いっそどこぞかで一度やり過ごすのも――ム?」
言いかけてジンノーの表情が変わった。虚空を睨みつけるようにして、あらぬ方向へと気を配る。何かの存在を察知したのだ。
「…………」
「ジンノー様? どうかなさいましたか?」
無言で周囲に警戒を向けるジンノーに、シャオファは不思議そうにジンノーをうかがう。何の戦いの心得も持たない彼女では察知できない、遠方よりの気配。卓越した戦士であるジンノーであればこそ気づけた小さな予兆だ。
「何かが近づいてきおる……」
「えっ、それは――」
シャオファの言葉をジンノーは待たなかった。即座の判断にてシャオファの襟元を引っ掴み、
「ツァーーーッ!」
気合いのかけ声と共にジャンプした。
「きゃああああっ!?」
驚いたのはシャオファのほうだ。いきなり襟元を掴まれたかと思えば突然の大跳躍に巻き込まれ。自身の身体が軽々と宙を飛ぶ感覚に眼を回しそうになる。
それほどにジンノーの敢行した跳躍は劇的であった。その高さにして建物の2階、いや3階ほどに匹敵する高さであろうか。生身の人間が何の準備もなしに行えることではない。これもまたジンノーの尋常ならざる力の一端か。
宙をヒラリと飛んだジンノーは街道の脇の小高い崖の上にスタリと着地した。その着地は軽やかであり、体勢を損じることなく完全に制御された動きである。
小脇に抱えられた形になったシャオファにもなんら衝撃は与えられなかった。
「一体何を……!」
「伏せよ」
あまりのことに流石に文句を言いかけるシャオファの頭を抑え、自らも地に頭をつけるように身を低くした。小高い崖の上ならば、下の街道から彼らの姿は見つけられないだろう。
何者かの迫る気配を察知し、ジンノーはいち早くこれをやり過ごすために高台に身を隠したのだ。
果たして現れたのは――
「ただの男、か?」
目を細め、じっと観察するジンノーの目に映ったのは一人の男だった。
ジンノーたちが通ってきた街道を息を切らせながら駆け走る――ちょうど先ほどのシャオファのように――のは壮年の男だった。白髪まじりの髪に恰幅の良い体形、身なりは悪くないがさりとて貴人というほどでもない。どこぞの小さな村の顔役、といったところだろうか。少なくとも追っ手の兵士には見えなかった。
しかし問題はその後だ。
壮年の男を後ろから追いすがる影が複数。兵士……ではない。獣の影だ。
影の数は五つ。地を這うように低い位置を、ピッタリと寄り添いながら滑るような速さで群れ迫るその影の正体は、
「あれは……ジャッカルか!」
ジャッカルとは大陸に生息する獣の一種で、狐と狼の中間のような姿をしている。肉食性ではあるが気性は臆病で、群れで襲うのはもっぱら自分よりも小さな動物といった大人しい獣……であった。
ジャッカルが大人しい獣であったのは以前までのこと。魔族による侵攻以来、魔界より流れこんだ悪しき瘴気の影響により彼らの生態は激変した。気性は好んで人を襲うほど凶暴となり、身体構造もそれまでとは大きく異なりより殺傷に適した身体となった。
街道を走る男はこのジャッカルの群れに襲われたのであろう。からくも逃げ出したという体であるが、相手は速さで勝る獣。とても逃げ切れるものではない。
「ハァッ……ハァーッ……!」
もはや悲鳴を上げる余力もないだろうが、脚を止めることは死を意味する。男は必死に走るしかない。ジャッカルたちも慣れたもの、獲物はいつか走り疲れて倒れることを知っているのだろう。遠巻きに追い立てるのみである。
男も、ジャッカルも崖の上で息を潜めるジンノーたちには気づかなかった。そのまま街道を走り抜けていく。
「……行ったか」
やりすごすことには成功した。……だがあの追われる男はおそらく助からないだろう。ジャッカルたちに食い殺され、無惨に屍をさらすことになる。
ならば――
「――あの方を助けましょう」
シャオファは決然として言った。
ジンノーはそんな彼女をあえて無感情な瞳で見つめ、問いただす。
「本気か? わかっているだろうが貴様には猶予はないのだぞ。疾くこの地を去らねばまたぞろ追手がやってくる。儂が蹴散らすに他愛ないとは言ったが、無駄な労苦は御免こうむる。こんな街道の端でまごつくようであれば是非もない、放りだすもやぶさかではないぞ?」
試すような口のジンノーにも、シャオファは怯まない。
「かまいません。捨て置かれると言うのであれば致し方なく、私は私で一人正しくこの命を捨てる場所を探します。……元よりそのつもりであれば、今さら生き方(ここで彼女は皮肉に笑った)を曲げるつもりもありません」
「ただ少し通りがかりのを見かけただけの男だ。いちいち助けを出していてはキリもあるまい。……それでもか?」
コクリとシャオファは頷く。蒼の瞳には一切の翳り無し。
「どのような方であれ、いずれ私のこの――おぞましき呪いに生かされた命より価値が無いということはありませんよ」
それに、とシャオファは苦笑しながらジンノーの腕を見た。
「ジンノー様も、ほら――もう拳を握っていらっしゃるではないですか」
「む……」
指摘されて気づいた。いつの間にかジンノーの拳は堅く握りこまれ、臨戦の構えをとっていた。
(儂が小娘に感化されたとでも? ええい、小僧の時分でもあるまいし……!)
心中では苛立たしげに一人ごちるが――その拳の感触はどこか心地よかった。
かつて何も恐れず、何も誤魔化さず、ただただ己の信じる正義のために、仲間を肩に並べ戦ったあの時の感触にもよく似て――それを忘れていた自分に、忘れていることに慣れていた自分に吐き気がするほどの忌々しさを感じてしまう。
それを誤魔化すようにしてチッと舌打ちする。
「ならば急ぐぞ。駆けつけたはよいが既に魔獣の腹の中、では格好もつかんからな」
「はい!」
シャオファは快活に応じ、二人は街道へと崖を駆け下りた。
●
……ある日のこと、若き一人の拳僧士(モンク)が師に尋ねて言った。
拳法とは最強の戦闘技法であるのか? と。
師は答えて言った。
「否。拳法とは、およそヒトが扱いうる戦闘技法の中で最も弱きものである」
弟子からの、童の言葉遊びとも思える問いに、師――拳法を教える立場にあるその師はむしろ厳かにそう答えたのだ。
自分が弟子に、血肉に刻み込むかのごとく過酷な鍛錬を課して教え込む戦闘技法を指して最も弱いと言いきったのだ。
「拳より強きものそれは剣であり、剣より強きものそれは槍であり、槍より強きものそれは弓である。それは古今の戦場において幾多の命を散らすことで証明された理である」
師の簡潔で、そして突き放した答えに弟子は驚きと……そして不満の思いに口をとがらせた。
それはそうであろう。でなければ、日々厳しい鍛錬を耐え忍んでいる我が身は一体なんなのだ? 弱き、最も弱き戦闘技法を必死に体得せんとしているのは滑稽ではないか?
そんな弟子の様子に、師は笑んだ。
「はははは! 得心できぬ、といった顔だな。しかし考えてもみるがよい。何故この、数多の強靱なる生命力を持った獣や怪物の溢れる大陸の中で、人間という種族が覇を唱えることが出来たものであるのかを」
師はその手に、祈りの儀式で用いる神が操る杵を模した法具を手に取って見せる。伝説によれば神はこの杵より発した雷光で悪しき魔物を打ち払ったというが。
「それはひとえに人の『手』が道具を――武器を持つことが出来たからに他ならぬ。ゆえに人がその力の本領を発揮するには武器というものが必要なのだ。しかし我ら拳僧士は手に得物を持たず、その五体のみを武器として戦う。これは非合理であると言わざるを得ない」
効率的に相手を殺すことが強さだというのであれば、非合理とは即ち弱さだ。
ならば何故、自分達拳僧士はあえてその非合理な手段を用いて戦うのか?
そう弟子は――若き拳士ジンノーは師に問うた。
「……そうよのう。我ら拳士が武器を持ち戦う者に比して得られる利というものはそう多くはない。だがもしも、拳のみで戦う非合理が武器を持つ合理を超える事があるとすればそれは――」
●
「う、ああっ……!」
ついにジャッカルは男をとらえ、禍々しく光る漆黒の刃じみた爪はその背を切り裂いた。服ごしにであるからか鮮血は噴出すことなく、しかし深く確実に滴った。
「ひ、ひぃ……」
傷を受けたショックと食い殺される恐怖とで男はもはや立ち上がることもできず、街道の真ん中にへたりこんだ。このまま座して死を待つのみか。
『…………』
もの言わぬジャッカルたちは吠え立てることすらせず、群れて男を取り囲む。ここにいたっても野生の獣から転じた魔獣たちに油断は無い。不意の反撃のリスクすら回避し、獲物が弱り切ったのを確認してからトドメをさす算段か。
あくまでも冷徹な遊びのない獣の判断力。しかしそれが逆に男の命を救うこととなった!
「ツァーーーーッ!」
『!?』
裂帛の気合いの声とともに街道の向こうから飛び至るモノあり! 何者かは言うまでもない、無頼の僧拳士ジンノーである!
「大丈夫ですか!」
そう言って男を助け起こすのは、ジンノーの首にかじりつくようにしてつかまり共にジャンプしてきたシャオファである。流石に二度目の跳躍ともあれば落ち着いたもので、着地と同時に駆け寄ることができた。
「あ、ああ。すまない……あんたたちは一体?」
シャオファに手を貸され、よろよろと立ち上がった男はシャオファと、そして二人の前で拳法の構えを取って向き合い、ジャッカルを牽制するジンノーに問うた。
「ふん。何と言うほどの者でもない。そこな世話焼きの小娘がどうしてもと言うでな、節介に来てやったただの酔狂者よ」
吐き捨てるように言って、ジャッカルへと睨みを利かせるジンノー。
シャオファはそんなジンノーの悪態に苦笑する。
「私はシャオファと申します。ゆえあってこちらの拳僧士の――ジンノー様の旅に同道させていただいているただの女です。街道の影で貴方がジャッカルに追われているのを見かけまして、ジンノー様にお助けを願いました」
「おかげでこちらはいい迷惑よ。なんの腹の足しにもならんというのに、こんな獣と取っ組み合いをしろときたもんだ。このツケ、貴様一体どうしてくれる?」
窮地の助力に来てくれた拳士の不機嫌を見て、男は怯えたように申し出る。
「お、お望みとあらば心ばかりの御礼はさせていただきますので、なにとぞ、なにとぞここはお助け願いたく……!」
「大丈夫、ジンノー様はこのようなお言葉に似合わずとても慈悲深きお方です。きっとこの窮地をお救いくださるはずです!」
満面の笑みで太鼓判を押すシャオファにジンノーは顔をしかめた。
(子守の次は人助けか? 本当にらしくもないぞジンノー)
心中でそう一人ごち、散じかけていた意識をあらためてジャッカルに向ける。少々気を散らしたところで隙を見せるジンノーではない。魔獣たちは油断なくジンノーを見据えて牙を剥いている。
(人間様より獣のほうがよほどに慎重であるとは、なんとも情けない話だな)
先刻の兵士たちとの乱闘と比べてそう思う。
ならばこそ、こちらもまたことさらに油断なく対処しなければならない。
「……フゥ! スゥーッ!」
短く息を吐き、そして深く息を吸う。そして――
「構えを変えられた……!?」
シャオファは目を見張った。呼吸を終えたジンノーは、もどかしいほどにゆったりとした動作でその拳法の構えの形を変える。
それまでは堅く握った拳を胸の前に小さくかかげ、脚は瞬発力を意識して浅く開き、急所を無闇に晒さぬよう半身のままコンパクト敵に正対していたが、その構えをジンノーは変えた。
まず握っていた拳を開き、中指と人差し指をピンと伸ばして指突の形を作る。これは大きな変化だ。剛拳にて敵を打ちのめす姿を見ていただけに、シャオファはこの破壊力よりも鋭さを匂わせるイメージの変化にギャップを覚えた。
変えたのは拳だけではない。いつでも飛びかかれるようにといった姿勢であった脚は、瞬発よりもしなやかさを思わせるよう長く広く伸ばされ、腰もドッシリと深く下ろす。それまでの構えが弾ける寸前のバネであるならば、こちらは地に根を下ろした大樹とでもいうべきか。
上半身もまた大きく変化する。両の腕は下半身同様広く開かれ、左の腕は敵を指差すように、手首まで真っ直ぐと、しかして柔らかく伸びる。右の腕は敵を睨むように、顔の真横に据えられる。脚を大樹に見立てるならば、腕は広く茂る枝といえるだろう。
「なんと……これほどまでの構えの変化とは、このお方の拳法これはもしや『極輝拳(きょっきけん)』……!」
「極輝拳?」
ジンノーの構えの変化に驚きわななく男に、シャオファを聞き返す。
だが男の答えよりも先に、ジャッカルは動いた!
「グルルゥ……!」
唸り声を上げ、ジンノーたちを取り囲んでいた5匹のジャッカルのうち一匹が地を駆ける。
知恵を持たぬ獣であるジャッカルが、ジンノーの構えの変化の意味を悟ったわけでもないだろう。しかし知恵持たぬ獣であればこそ、戦いの趨勢を見極める力を持つこともある。
ジンノーの深く腰を落とした構えが、積極的に攻撃を行うためのものではないことを感じ取ったのだ。事実、ジンノーの取った構えは『受け』の構え。先制ではなく、あえて敵に初撃を与えることを前提とした物だ。
そしてこれは逆説的に、敵であるジャッカルは必ず先制しなければならない状況になる。ジンノーは自分からの攻撃を放棄したのであれば必然、先に攻撃するのはジャッカルだ。
そしてジャッカルには攻撃を諦め撤退するという道は無い。なぜならば、
(殺し、喰らうことが獣の性であるがゆえ、か)
命を奪い喰らうことで自身の命を繋ぐ。たとえそれが瘴気に冒された魔性であったとしても、獣という存在であれば至極当然の理なのだから。
「であれば汝ら罪無し。存分に我が命を狙うがいい……!」
それが当たり前であるとして、喉笛を狙い絶命させんとして獰猛に襲い掛かる獣の意思を受け入れる。
――だが獣よ知るがいい。おまえたちが相手どるものもまた、獣のごとき命の応酬に身を置く戦士であることを!
「ガアッ!」
強く吠え、牙を剥き出してジャッカルは跳ぶ! 野生の勘の賜物か、それはちょうどジンノーの間合いの一歩外。拳士ではその跳躍を阻止できない。飢え喰らいつこうとする一個の顎(あぎと)そのものが迫り来るがごとし迫力!
「……!」
飛来する獣の殺意に相対したジンノーはカッと目を見開き、
「シャアッ!」
切りつけるような短き掛け声と共に『拳』――否、『指(シ)』を振るう!
鋭き指突は冴える刃のごとく、すれ違い様に獣の体を深く切り裂いた!
「……グゥル……!」
くぐもった苦悶の声が響く。獣が舞い散らす激しい血しぶきは、計ってすり抜けたかのようにジンノーを濡らさなかった。ジンノーの完璧な見切りは血しぶきの流れすら読み切っている。
飛び掛った勢いの軌道を指突によって変えられ、ジャッカルの身体は力なく街道の脇にあるまばらに生えた草むらの影へと落ちて見えなくなった。おそらく立ち上がることはないだろう。
兵士たちを打ちのめした荒々しく猛々しい拳の技とは違う、ある種の美しさすら伴う流麗なる指突の技。
「おお……! あれはまさしく極輝拳の誇る『万変』の妙技!」
男は感嘆の声を上げた。
そして状況も変化する。
「……!」
仲間の一匹がやられたと見るや、残りのジャッカルたちはすぐさま身を翻して退いていく。
「逃げていく……?」
「ジャッカルどもは魔力によってその感覚を同調させている。それによって群れでの一糸乱れぬ連携をしかてくけるのだが、欠点もある。一匹がやられれば群れの他のモノにも同様に痛撃が伝わり、容易く算を乱してしまうわけだな」
「それで他のジャッカルたちは逃げていったのですね」
「ウム。まったく、一匹やられればおとなしく逃げるなど、獣のなんと素直なことよ」
ろくに相手の力量も量れず、懲りもせずに全員叩きのめされた兵士たちの愚かさを皮肉に笑いながらジンノーは肩をすくめる。
「――そうおっしゃるほど楽なことではございませんでしょう」
そう声をかけてきたのは助け出した男だ。背中に受けた傷は命にかかわるほどの深手ではなかったようだが、状況が落ち着いたことで痛みを思い出したのか。顔を青ざめさせている。
「僧士様の極輝拳の見事なお手前あればこそかと……」
「フン。あの程度、どうというほどのことでもないわ」
ジンノーはつまらなさげに息を吐く。世辞は取り合わぬ、という風だ。
「極輝拳……それがジンノー様のお使いになる拳法の名なのですね」
「なに、ただの古臭い田舎拳法よ。今時の拳僧士であれば、もっと洗練されたのを使うであろう」
だがジンノーが兵士たちを、凶暴なジャッカルを退けたのはまぎれもない事実だ。ジンノー自身の力もあるだろうが、極輝拳という拳法が強力であるということには変わりない。
ふと浮かんだ疑問をシャオファは口にする。
「構えが前に見たときと違ったようですが……」
「それが極輝拳の特徴であるからですよ」
答えたのは男のほうだ。どうやら拳法についてはそこそこ詳しいようである。
「極輝拳とは万変の拳。『五形十二応』と言われる様々な形の構えを使い、幾多の技を駆使してあらゆる敵に対応することを目的とした拳法なのです」
変幻自在。それこそがまさに徒手空拳による戦闘技法――拳法というものの最大の利点だ。
武器を手に用いて戦う術は、たとえどんなに技を極めようという武器そのものの形を変えることはできない。剣はどこまでいっても剣のまま、槍はどこまでいっても槍のまま、弓はどこまでいっても弓のままだ。それもまた見方を変えれば武器の利点の一つであるのだろうが、武器の形状が戦闘術にある程度の縛りを加えてしまうことは否定できない。
極輝拳は――極輝拳を編み出した者、極輝拳を練り上げてきた者たちはそれを嫌った。状況や相手に左右されることなく、いかなる敵をも撃滅することを目的として歴史の中で技を培ってきたのだ。
その一端が構えの変化である。
男の言った『五形十二応』の五形とはすなわち、『拳(ケン)』『手(シュ)』『指(シ)』『掌(ショウ)』『握(アク)』の基本となる五つ手の形――つまり『構え』のことである。無論これはただの基本のことで、実際に五つどころか無数の構えを使いこなすのであるのだが。
そして十二応とは応ずべき十二の相手、つまり想定される敵に合わせるという意味だ。対人や対獣をはじめとして様々な相手が想定されており、これを五形と組み合わせることでいかなる相手にもその技法を変化させるのである。
いかなる相手にも合わせて最適化した技を振るう、これまさに無敵の拳法と言ってもいいだろう
もっとも、
「おかげで器用貧乏だのどっちつかずだのとも言われるがな。儂などまだまだ見様見真似もいいところ、十全な練りだなどとはとてもではないが言えんな」
無敵の拳法。それは極輝拳という拳法を極めることができれば、の話だろう。単純な話だ、あらゆる敵を想定するあらゆる構えなど、習得するのに手間がかかってしょうがない。そんなことをする暇があるのなら、一つの技を極めたほうがよほどマシだろう。
――もしもこの極輝拳を使いこなすことが出来るものがいるとすれば、それは長い年月をかけて真摯に技を鍛え続けた者であるか、あるいは短期間であってもあらゆる敵との命をかけた実戦を繰り返した歴戦の猛者であるか……。
「そのお若さでこれほどの巧夫(レベル)であれば十分に――ウウッ!」
言いかけて男は呻いた。背中の傷口が痛んだのだろう。
「痛むか。どれ、傷を見せてみろ」
ジンノーは男の背に回り傷口をあらためる。傷の位置を確認すると、そこに手をかざす。
「……」
瞑目してのわずかな集中の後、ジンノーの手のひらがほのかな光を放つ。
「治癒の魔術……!」
他者の身体にその魔術が発動するのを見るのは初めてなのだろう。シャオファは目を見張った。
治癒の魔術はその習得こそ簡単だが、他人に使うのは難しい魔術とされている。傷口をふさぎ、血管や神経を治すのが治癒の魔術であるが、その行使には人体構造の把握が必要であるからだ。
魔術を使う対象が自身の身体であれば、それは直感的にわかるためおおむね問題ないのだが(シャオファの肉体にかけられた呪いの魔術もその応用であろう)。他者に使う際にはそうもいかず、正確な知見が求められる。
傷口が深ければ深いほどその難易度も増し、うかつに手を出せばより傷口が悪化することもありうる。だがジンノーの治癒の魔術の精度はかなり高く、見る間に男の背中の傷は癒えていく。
治癒を終え、ジンノーは手を離す。
「――どうだ。まだ痛むか?」
「いえ、なんともありません……!」
驚いたのは男のほうだろう。治癒の魔術をこれほどに使いこなせる人間はそうそうには居ない。戦闘技術のみならず治癒の魔術においても稀有な腕前を見せられては驚かずにはいられない。
「傷口が引きつることなどもあるだろうが直に馴染むはずだ。それでも疼くようなことがあればよく温めて揉みほぐすのがよかろう」
そう付け加えられ、男は身体を動かして調子を確かめてみるが異常はどこにも見当たらないようだ。
やがて男は感服し、膝を着いてあらためて深く頭を下げた。
「おみそれしました……!」
「ケッ、よせよせ。儂の聖術なぞ、壊す技ばかり使っておったゆえに覚えた手業にすぎん。壊し方を知っておれば治し方もわかる、という程度の話のな。誇れるものでもない」
そう言ってジンノーは鬱陶しげに、シッシッと手を払うように振るが男は頭を下げたままだ。どうやらただ感謝しただけではないようだ。
「実は折り入って僧士殿の――いえ、ジンノー殿をお力を見込んでお願いしたいことがございまして……」
そう切り出した男に、ジンノーは呆れたように顔をしかめる。
「命を助けられておいてさらに何かを強請るとは、なんともあつかましい男よ……」
「それは、本当に申し訳ございません! ですが私どもにものっぴきならない事情がございまして!」
「ならばとりあえず顔を上げて喋れ」
促され、男は顔を上げる。その、くたびれた壮年の男は真摯な面持ちでジンノーに訴えた。
「私、この近くの村で村長をしておりますゴラルドと申します。お願いしたい事というのは他ならぬその村の者のことでございます……」
男――ゴラルドはジンノーの睨んだ通り、どこかの村の長であった。
「実は数日前、村の近くで大きな崖崩れがありまして、それに村の者が何人か巻き込まれてしまったのです」
「なんとそれはまあ……大変なことではないですか!」
シャオファは驚き、気の毒そうに眉を寄せる。ゴラルドも頷いた。
「それでも不幸中の幸いと申しますか死者が出ることはなかったのですが、怪我人は多く出てしまいまして……」
「……それを儂に治せと? 村にまともな医者はおらんのか?」
「何分小さな村であれば、常に医者に居てもらうことなどできないのです。何かあればもっぱら近隣の少し大きい村から医者を呼んでくることとなっていたのですが……」
「そこをジャッカルに襲われた、と」
「はい。普段はもっと若く脚の早い者が呼びにいくところなのですが、その者も怪我をするか怪我をした者を看るかをせねばならず。やむなく恥ずかしながら私が隣村へと走ることになったのです」
若い男であればジャッカルの群れに抵抗することも、出会わぬようやりすごすことも出来たかもしれないが。見た所このゴラルドという男、村の顔役としてはそれなりに貫禄はあるものの荒事には向いているようには思えない。ジンノーが助けておらねば今頃はジャッカルの腹の中。村へ医者を連れて行くこともできなかっただろう。
ジンノーは空を見上げる。そうこうしているうちに午後の陽は傾きかけ、夕闇の気配が迫りつつある。
「今からではその隣村に行くことも不可能か。まして医者を連れてくることなどできもせんな」
「怪我をした者の中には小さな子供もいまして、応急の処置で一命はとりとめていますが、一刻も早く医者に診てもらいたくありまして……」
ゴラルドは再び頭を下げる。
「なにとぞ! なにとぞ僧士様のお力をお借りしたく……!」
「ジンノー様……」
シャオファまでも縋るような目でジンノーを見る。面倒ごとなど嫌うジンノーであるが、こうまでされてすげなく見捨てるなどということもできるはずもなく。
「ええい! わかった、わかったわい! 村でもなんでも行ってやろうぞ! ただし、そうと決まった以上タダ働きなんぞせんから覚悟しろ! 頂く物はきちっと頂くからな! びた一文まからんぞ!」
それはほとんど強がりのような脅し文句であった。
ゴラルドは怯えるよりもむしろ恐れ入り、さらに深く頭を下げるのみである。素直に感謝などされれば脅したほうが馬鹿らしくも見える。
(――まったくままならん! この小娘と逢うてから何もかも狂いきりぞ!)
心中でそう毒づき、ジロリとシャオファを睨むが。
「本当に、よかったです!」
シャオファはむしろ柔らかく微笑むのみであった。