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【現在点からの宣言】活動のステートメント(長すぎ)

これを書き始めた今から7時間前、約1年ぶりとなる個展が終了しました。来てくださった方、お話してくださった方、そしてなによりプロジェクトに関わり支えてくれた方たちへの感謝で胸がいっぱいです。

ここ一年ほど、自分が取り組んでいる活動が"現代美術"にカテゴライズされうるものなのかどうか、そして自分自身が何故アーティストを志し名乗っているかがわからなくて、悩んで、悩みながらも活動を続け、発信してきました。

私がやってきたこと、そして私がやりたいことってどんな抽象的な言葉で語れるんだろう。そんなことに悩んだ一年でした。そしてその悩みはこれからも抱き続けるんだろうという予感が、個展を終えた今は愛しいものとなってきました。

展示期間中に様々な方と話し、その中で思ったことを備忘録的に、しかしできるだけ客観的な言葉で語ることを目指しこれを記します。


「宮森さんは何故こんな作品を作るのですか?」という質問

こんな質問を、一年ほど前から頻繁にされるようになりました。今思えばその質問は当たり前の疑問であると理解りますが、しかし私はその質問にいつも怯えていました。

今回展示した作品より前の作品の殆どは、「私ではない誰か」が題材となっています。誰かに出会うため街をさまよい、知り合った誰かに取材や聞き取りをして、それを編集したデータをそのまま戯曲とし、パフォーマーがそれをそのまま上演、つまり再演する。そんな作り方を徐々に洗練させていくのに数年の歳月をかけてきました。

そして「宮森さんは何故こんな作品を作るのですか?」そんな問いを、いつも苦しく受け止めてきました。正直なところ私の中では自明なものでしたが、人に喋りたいようなものではなかったのです。言ってみれば、自身の生きづらさに直結している自他の境界の曖昧さに悩み、そんな状況を利用してやろうという思いから来るものに他ならなかったからです。

クソダセー自意識

大学院修士課程の修了制作でもあった今回の展示作品の大半の制作に着手するとき、私の中にはこんな思いがありました。「私がどんな欲望に駆られて活動をしてるか、という問いにも応答する作品にしよう」。言葉で理由を語るよりも遥かに、作品として返事をすることがアーティストっぽくて滾るな、と思ったわけです。

そうやって自分自身を初めて題材にしてみようということを思い至りました。

カッコよくいたい、キラキラしていたい、そんな飢えた承認欲求とプライドの高さが、そんな私を突き動かしました。向き合うには色んな思いがありすぎる両親に対し、作品制作に協力してほしいと頭を下げて請うことができたのも、もっと開けた、広い社会の中で「カッコいいアーティストだと思われたい」というくだらない自己顕示欲があったからだと断言します。それほどに私の自意識は大きく、他者から、そして社会から向けられてるかも疑わしいような視線を過剰に気にかけていた(る)のです。

結果としてこの作品がカッコ悪い自分を晒すこととなることを、当時の私は微塵も予想していなかったわけで、作り始めたときはむしろ「何故あなたがこの作品を?」という質問にクレバーに答えてやるぞと燃えていたわけです。

作り終え、それを人様の目に晒し、その上で「ダサさを隠さないこともカッコいい」と居直っていることを、もう隠そうと思うこともありません。ダサくても生きていく、不格好にでも生きていく、そんなカッコよさ(という幻想)を私は今、本気で信じています。

芸術よりも大好きなもの

関係の深い人はみんな知ってると思いますが、わたしは美術研究科の博士後期課程に在籍しているくせに、芸術作品を見るよりも大好きなものがあります。

それはびっくりするほどミーハーに、流行りのYouTubeチャンネルとテレビやラジオなどのバラエティ番組です。芸術作品について、そしてその作り手について考える時間よりも遥かに、先に挙げたコンテンツを消費している時間のほうが長い。

タレントとして活躍できる人は、自分のキャラクターを熟知しています。日常的な生活よりも遥かに強化された役割とそれをプレイングすることに長けた職人たちが出演している。まるで"神々のたそがれ"のようにそれを成し遂げる彼らをただ消費者として眺める時間が、これまでの私を支えてくれました。

様々な企画が簡素な構成として機能し、そのフレームの中で遊んでいるようにも見えるその動画コンテンツ。その中でキャラクターをアピールし、視聴者に応援してもらえる人が出役として長く生き延びる。そんなキャラクター商売から多くを学んできたし、これからもそうなんだと思います。そこには器用にこのクソッタレ社会を生き抜くメソッドが沢山含まれていて、さらには自己顕示欲と「売れたい」という欲望との向き合い方が様々な形で表出している。キャラクター商売に生きる作法を学び、キャラクターの消費にはコミュニケーションの問題を見出しているのだと思います。

ディレクターという役割分担

人に何かをしてもらうことが作品を形作る私の活動は、いまアートマネージャーの人と空間のディレクションをしてくれる人との3人で行っています。

わたしは最早「作者」ではなく、企画の進行をハンドリングしているだけの人でもあります。アートシーンに対してはアーティストと名乗っていますが、今は少しだけ私のやっていることを「ディレクション」と呼んでみています。

それは演劇のクレジットで言う「演出」とも似ているし、着想、つまり作品の原点を担うという意味においてアーティスト的でもあって、だけど言葉としてはバラエティコンテンツの「ディレクター」から取っています。企画して、やってみて、それを広い意味で編集したりして人に見せてみる。見てくれる人の反応を見てチューニングする。そんな作業は、テレビやラジオ、YouTubeのバラエティで言うところのディレクターと最も似ているように思います。

わたしは演出もするし、芸術にカテゴライズされうる作品も作るし、だけどディレクターを名乗ってみています。企画遂行を望む私という主体とそれが名も知らぬ人に受け取られていくという意味での客観性の間に立ち現れる、他でもない私自身の"リアクション"の延長の中に身を委ねてみたいのです。

便利なカテゴライズとの絶望的な相性

美術なの?演劇なの?

こんな質問を、よく受けます。「演技」という多くの人が体得しているであろう技術を用いていることが原因なのでしょう。

助成金を申請するとき、カテゴライズにいつも迷います。チャレンジするコンペを探すとき、美術系のものと演劇系のものとそれ以外のものを同時にチェックしています。

作品や活動を追ってくれている人の中には、美術が好きな人と演劇が好きな人とそのどちらでもない人がいて、メインの層というものはありません。

だから、私のやっている活動はどんなカテゴリーに属するのかと無邪気に質問を投げかけられるときはいつも、私が聞きたいくらいだと思っています。

だけど、今回の個展のタイトルにも含めてみたように、類する言葉はきっと、「プロジェクト」なのかなぁと思っています。近い分野の言葉で言うところのアートプロジェクトなのか、演劇的なプロジェクトなのか、私にはまだわからない。「共創」みたいな耳障りの良い言葉が当てはまるものなのか、「独創」みたいな信条に当てはまるものなのか、私にはまだわからない。

だけど、企画を立てて遂行し、そのプロセスそのものが重要なものだとシンプルに考えてみたら、きっとそれは広義の「プロジェクト」なんだろうと思っています。そう言ってみたほうがカッコいいし、しばらくはそう言わせてください。

芸術なの?ケアなの?

これも、よく受ける質問の一つです。私はこの質問をされるたび、「私には他人を救いたいという大義は一切ない」と応えてきました。

その言葉に嘘はありません。私はいつも、第一義として、私のために活動を続けてきました。私の思う正しさ、かっこよさをなんの迷いもなく作品にぶち込んできました。

ただ、私の欲望の中にある「他者と健全に関わってみたい」という要素が、私の作品をケアっぽく仕立ててきたんだろうとも思います。

でも、忘れてはいけないこととして、正しさは誰もの内側に、別の形で立ち現れているということが挙げられます。これはいつも思い返すことです。私が正しいと思って疑わない理論は、他の人においては大きな誤りになり得るということです。違う形で表出する正義と正義がぶつかり合う映画やドラマを、私たちはさんざん消費し、身勝手に持て囃してきたでしょう。個々人の主張は、やはりピッタリと重なることはなく、時にぶつかり合うのです。

そんなことを頭ではわかっているのに、私は「作品を発表する」という手段でより大きな声を持とうとしてきた。より大きな声を持てるということはアーティストとしてカッコいいことだと思い、がむしゃらに走ってきました。 

その結果、独善的で説教臭いカッコつけたいだけの人間が爆誕しました。正しさを説くという愚行を重ねている意識と、それが誠実に受け取られていく現場を目撃することをもっと俯瞰して考えなければいけないと今、改めて思っています。

それは展示や公演といった形式を疑うことなのか、それは何かを作り出し発表する人としての自負を責任とともに背負い続けることなのか、それは権威というものを現実として、そして共同体が抱く幻想として捉えてより深く分析していくことなのか。

わたしのエゴは、欲望は、活動は、どういう副産物を生むのだろう。そんなことを、想像している以上に複雑なことを想定し、観測し、その上で発信することの意味を、世界で一番悩んで考えてみたい、と、今回の展示の中で思いました。それは優しさだとか、思いやりだとか、そんな正しそうな言葉の中にではなく、ただ個人の欲望の在り処を、怖がらずに、逃げずに、見つめてみたいという意思でも安理ます。

数々の有名アーティストが登ってきたキラキラスターダムを前に、やはり「そこに山があったから」という理由だけで登ってみられるほど私は無頓着じゃない。なぜなら私はもっとずっとカッコよくいたいと思っているからです。だから、わたしはもっと自分自身の行動原理を明らかにしたい。もっとカッコ悪い自意識や、潜在的な暴力性、加害性と向き合うことになるだろうけれど、仕方がない!そういう人間なので。

私の現在地と今後の展望

流自己言及と自己開示が過ぎた自身の家族を題材にした今回の展示の中で「宮森さんは何故こんな作品を作るのですか?」とは問われることは流石になかったけれど、代わりに「今後はどんな作品を作るのですか?」という質問を多く頂きました。

そんなものは今後の私の活動を見てくれたら分かるじゃん!と思いながらも、気になることも同時によく分かります。ようやく自分自身のルーツに向き合おうとした私が、次にどんなことをするのかは気になって当然だとも思います。

私が聞きたいくらいだ!と思いながらも、活動のハンドリングは今後も私が多く担っていくことを思うと言語化しなければいけないなと思ったので、書いてみます。

私は、今回の作品に至る前は特殊な個人を扱うことがありました。実のところ、活動の全貌としてはマイノリティとされやすい人を扱ってみたり、マジョリティのど真ん中を扱ってみたりとしてきたのですが、だけどより多くの人に見てもらえた作品は、社会という何を指しているかもよくわからない言葉が持つ意味の中でマイノリティとされやすい人を扱ったものです。

だから私のことを、マイノリティとされがちな人が直面している問題を扱っている人だと、そう思っている人が多いんじゃないでしょうか。

だけどここで少し私の主張を言わせてもらうとすれば、私は固有の関係性の中に普遍的な、そして客観的な言葉を如何にして持ち込まずにいられるかを考え、発信してきたと思っています。

今回展示した作品は、私の育った家庭環境が決して特殊な事例ではなかったからできたものでもありました。家族という多くの人が持つ関係を、"ありふれた"家族関係の中で育った私の目線で解体することが重要でした。

驚くほどに一般的、だけどそこには具体性がある。驚くほどによくある話、だけどそこにはたくさんの問題がある。子どもが主体性を獲得していく過程において、関係性も意見もちぐはぐになり食い違うといういくらでも簡単に言えてしまうことを、具体性でぶん殴ったみたいな作品です。

個別具体の出来事が、より抽象的に語られてしまうこと。より抽象的な言説が個別具体的な生活に還元されてしまうこと。その相互的な作用の狭間で、私たちはどうにか納得しようと暮らしているんじゃないかと思うんです。抽象的な物言いがそのまま全部悪いわけじゃないけれど、出典の不明な言葉が如何に私の、私たちの生活に作用してしまうのか。そんな細かなことがずっとずっとずーっと気になっています。

自由で、奔放であることを美徳としてみたいと思ったとき、直面してきたであろう不自由さと行儀良さが比較対象として参照されるのは自明のことです。

そしてその判断を下すのは、抽象的な言葉であることが多いと思います。こうすれば対人関係うまくいくよ〜とか、こうすれば恋愛うまくやれるよ〜とか、こうすれば自立できるよ〜とか、クソッタレなHow-toにまみれた社会で、それでも器用に生きられたら、と願ってしまう。

今は幼稚に、それに抗ってみたい。

等身大に悩んで、等身大に考えて、等身大に表現したい。芸術よりもYouTubeやテレビ・ラジオが好きな私のまま、大きな社会よりも目の前の誰かと手を繋いでみたい欲望に従ってみたい。より多くの人に活動を認められたいというクソダセーモチベーションに突き動かされる私のまま、正しさを説きたくなってしまう衝動と葛藤する私のまま、それを晒してしまうダサさもカッコいいんじゃないかと居直ってしまう私のまま、私自身の正直な思いを社会にぶつけてみたい。

こんな決意表明を、誰がステートメントだと思ってくれるかはわからないけれど、このまんま公開してみます。

今後ともカッコつけたい私の活動を見守ってくれよな!お願いします。

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