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コマーシャルの幻想性についてのメモ

ある商品についての宣伝、コマーシャルというものは「この商品には買う価値がある」というメッセージである。直接的にせよ、間接的にせよ、逆説的にせよ、とにかく「価値がある」という説得を受け手に呑み込ませたら勝ちとなる。
そして、そのメッセージは「こういう価値がある」「こういう良い事がある」という機能的な説明を、具体的なエピソードの表象に乗せることで呑み込みやすくなっている場合が多い。

問題は、多くのコマーシャルがその「こういう」のところで商品の機能を越えた幻の恩恵を期待させようとすることにある。

「この自動車を買って乗れば親子関係がうまくいく」
「この胃薬を買って飲めば仕事のプレゼンが成功する」
「この電車に乗って駅で待ち合わせれば恋愛が成就する」
「この豚まんを土産に持ち帰れば家庭の雰囲気が明るくなる」
……etc.

落ち着いて考えればそれとこれとは話が別だろうとわかることを、短尺かつ勢いある図像や文言でなんとなく保証された効果のように幻想させるパワーが、広告というものには備わっている。著名人や人気キャラクターを起用するのも、「まあ、あんたほどの実力者がそう言うなら……」と幻を強化する要素となる。だが実際には、どんな修辞をこらそうとも、その商品がその商品であること以上の何一つとしてコマーシャルは約束していない。提供するのは「そうなりそう」な気分、ただそれのみである。

だから、我々がコマーシャルに誘導されて1つの商品を欲しいと思った時、いったん「買えば得られそうだと自分が期待しているものが、その商品そのものに属しているかどうか?」を自問してみるとムダ遣いを控える一助になるかもしれない。ケンカ別れして数年ぶりに顔を合わせる息子と距離を縮めたいのであれば、必要なのは対話することそれ自体である。あなたは自動車を購入したいわけではないのだ。
よくてせいぜい無数にありうる手段の中の1つ程度にしかなりようがないものを「これを買う事によって、こうなる」と直結してみせる手練手管は、目くらましの幻術というほかない。

………………っていう道理はあるんですが、こんな事をすべての市民がつねに重々しく意識して買い物を厳選しだすと世の中は不景気になってしまうので、やっぱあんま気にしないでいいです。
懐具合に無理がかからない範囲であれば、幻の成功図に気分だけ乗っかって購買行動に走っても別に罪にはなりゃしません。お客だって頭では分かってるけどあえて、という場合が大半ですしね。

「罠でもいい! 罠でもいいんだッ!」

漫画『ポプテピピック』シーズン5 [9-9]


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