無題

虚と実の狭間で戦うレスラーたちのサウダージ――樋口毅宏『太陽がいっぱい』

(初出:旧ブログ2017/10/15)

 プロレスというジャンルが有史以来対峙し続けているテーマがある。アングル(抗争などの筋書き)、ブック(試合進行の台本)の存在だ。確かにアメリカの大手プロレス団体WWEがブックの存在を認めたことはある。だがあれほどの肉体のショーが全て事前に打ち合わせた通りに運んでいるかといえぱ、違うだろう。レスラーの背中に他の競技のアスリートとは異なるサウダージを感じるのは、演劇的な筋立てを持ったショーと、勝敗という二元論を持ったスポーツとのジレンマを常に身に纏ってリングに立っているからだ。

 一応架空の日本プロレス史における様々なレスラーの短編集という構成だが、ジャイアンツ河馬、鷹羽幹彦、前谷旭など実在選手をモデルにしたレスラーが多数登場する。クラッシャー木村が主人公である第3章『ある悪役レスラーの肖像』には、かの有名な「こんばんは事件」も登場する。実在するアスリートをフィクショナルなキャラクター化をするのは『がんばれ!タブチくん』などの野球漫画を中心に、スポーツ文学・文化の中でかなり昔から用いられている王道の手法だが、プロレスというそもそも演劇的要素を持ったジャンルの小説でこの手法を用いることで、よりプロレスの「劇性」を際立せることに成功している。どこまでが実在の出来事をモデルにしているか、どこからが創作なのか、その境界を探るうちに読者は『太陽がいっぱい』というプロレスの”観客”となり、虚実ないまぜの日本プロレス史に熱く熱く引き込まれていく。

 スポーツ選手は星(スター)に表現することが多いが、この小説は「太陽」と冠している。アラン・ドロンの映画と同名の表題作も、暴力をふるう父を殺したマスクマンや義足になったヒールレスラーなど、様々な過去を持ったレスラーの経歴が掌編小説のように語られたのち、一同がリングに集結してロイヤルランボー形式による大決戦がはじまるというプロレス小説ならではの構成だ。この短編で「いっぱい」いるのはレスラーであり、レスラーこそ「太陽」なのだ。
 
 遠くから仰ぎ見れば暖かな日光を運び、闇をも照らすが、近けば近づくだけグロテスクな黒点があり、人智を超えた熱と激しい紫外線を放つ。この図式はプロレスに似ている。遠い憧憬と近い現実。そのどちらを欠いても熱い日光を放つことは出来ない。2章の章前に紹介されている、若林健治の言葉を借りれば<「プロレスが人生に似ているんじゃない。人生がプロレスに似ているんだ」>ということなのかもしれない。ちなみに樋口毅宏には『雑司ヶ谷R.I.P.』という、新興宗教団体の息子が主人公のハードボイルド小説があるが、こちらにもその宗教団体が主催する一大格闘技イベントの描写がある。本作同様に行間から湯気が立ってきそうなほどに熱い格闘技愛に満ちた文章になっているので、『太陽がいっぱい』が気に入った人は次はそちらを!

#プロレス #小説 #樋口毅宏

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